ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチ
Владимир Мстиславич
プスコーフ公 князь Псковский (1211-13、14-)
生:?
没:1233以前
父:スモレンスク公ムスティスラーフ勇敢公 (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
母:?
結婚:
& ? (リガ司教アルプレヒトの姪)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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リガ司教アルベルトの姪と | ||||||
1 | ヤロスラーフ | -1245 | プスコーフ | |||
2 | ? | テオドリヒ | (リガ司教アルプレヒトの弟) |
第11世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。
イパーティイ年代記には、父の息子としてはかれだけが挙げられている。父の死んだ1178/80年にはまだ成年に達していなかったらしいが、すでにその数年後には軍事遠征に参加していることから見ると、1160年代半ばの生まれと考えられるだろうか。
兄弟との関係についてはよくわからない。詳細はムスティスラーフ幸運公の項を見ていただくとして、一般的にはヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはムスティスラーフ幸運公の弟とされているが、実際は逆にヴラディーミル・ムスティスラーヴィチが兄だったのではないだろうか。
1180年、父の死でトリポーリ(トレポーリ)を与えられる。ドロゴブージュ公であったとの史料もある。いずれもキエフの衛星都市で、当時キエフ大公であった伯父リューリク・ロスティスラーヴィチから与えられたものだろう。
1180年代・90年代は、リューリク・ロスティスラーヴィチに従ってしばしばポーロヴェツ人への遠征に従軍している。
プスコーフ公となった事情についてはよくわからない。1208年に招かれたとも、1211年にノーヴゴロド公であったムスティスラーフ幸運公により与えられたとも言われる(前者の方が一般的か)。
ムスティスラーフ幸運公は1210年にノーヴゴロド公となったが、それ以前のノーヴゴロド公はヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公の子スヴャトスラーフだった。当時はノーヴゴロドにおける覇権を巡り、スモレンスク系一族とフセーヴォロド大巣公との間で隠微な対立があり、もしヴラディーミル・ムスティスラーヴィチが1208年にプスコーフ公に招かれたのだとすれば、あるいはこの対立とも絡んでのことだったかもしれない(それにさらにノーヴゴロドからの自立を図るプスコーフの意図もあったろう)。
プスコーフ公としてのヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは、積極的にリトアニア人と戦う。1211年にはヴェリーキエ・ルーキも委ねられている。
1212年にもムスティスラーフ幸運公とともにチューディ人(エストニアにいたフィン系部族)を討伐。
しかし、あるいはフィン系・バルト系の民族との戦いを重視するあまりか、リヴォニア騎士団やリガ司教には接近したらしい。1213年、娘をリガ司教アルプレヒト(アルベルト)の弟テオドリクス(テオドリヒ、ディートリヒ)に与えたことに憤ったプスコーフ市民により、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはプスコーフ公位を追われた。
ただし、この辺りの関係はいささか混乱している。ドイツ側の史料ではテオドリクスがヴラディーミル・ムスティスラーヴィチの娘と結婚したとされているが、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチ自身がテオドリクスの娘と結婚したとする文献もある。いずれにせよ、この頃ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチがリガ司教アルプレヒトと姻戚関係を結んだという点は確かだろう。
ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはプスコーフを去ってポーロツクへ。しかしリガ司教と対立していたポーロツク公ヴラディーミルにあまり歓迎されなかったため、結局リガへ。アルプレヒトとポーロツク公ヴラディーミルの会見を仲介し、ヴラディーミルにリヴォニアへの野心を棄てさせた。
その後アルプレヒトからリヴォニアの1地方の代官の地位を与えられたが、住民と対立し、ロシアへの帰還を余儀なくされた。ドイツ人と喧嘩して帰ってきたからか、再びプスコーフに迎え入れられた。
1216年、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチはムスティスラーフ幸運公とともにノーヴゴロド & プスコーフ連合軍を率いて、ユーリイ & ヤロスラーフ & ヴラディーミルのフセヴォローディチ兄弟と戦う(リピツの戦い)。
これ以降、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは心を入れ替えたかのように路線を転換している。つまり、つい先日戦ったばかりのフセヴォローディチ兄弟と協調して、かつては自ら手を結ぼうとしたドイツ人と連年のように戦った。
1217年にはチューディ湖地方に出陣し、義理の息子(父?)であるテオドリクスと戦っている。1218年にも息子ヤロスラーフとフセーヴォロド・ムスティスラーヴィチとともにリヴォニアに侵攻。1220年、ラトガル人が攻めてくるが、これを撃退する。1222年にはスヴャトスラーフ・フセヴォローディチ、フセーヴォロド・ユーリエヴィチとともに、1223年にはヤロスラーフ・フセヴォローディチとともにリヴォニアに侵攻。
ユーリエフ(ドイツ語名ドルパート/デルプト、現名タルトゥ、エストニア)は、キエフ・ルーシ(ノーヴゴロド)のリヴォニアにおける最前線であったが、1215年にリヴォニア騎士団に奪われていた。1223年、地元エスト人の蜂起もあってノーヴゴロドは奪い返していたが、1224年、激しい攻囲戦の末に、再びリヴォニア騎士団に奪われた。これにより、チューディ湖の西(リヴォニア)におけるノーヴゴロド(とプスコーフ)の拠点は失われ、以後、徐々にチューディ湖がノーヴゴロド・プスコーフとリヴォニアとの国境として確定していく。
しかしこの頃から、プスコーフにとって最大の脅威はドイツ人やリヴォニア人ではなくなりつつあった。ドイツ人やリヴォニア人にとっても同様で、最大の脅威は政治的なまとまりを確立しつつあった南西のリトアニア人となったのである。このため、プスコーフは方針を転換し、むしろリヴォニア騎士団やリガ司教と協調してリトアニア人に当たるようになった。
あるいはこの方針転換と何らかの関係があるのか、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは1222年頃からはプスコーフではなくルジェーフに居住していたらしい。ここは本来トローペツ公領であり、おそらく弟のダヴィド・ムスティスラーヴィチからもらったのだろう。
1226年、リトアニア人が侵攻してくるが、弟のダヴィド・ムスティスラーヴィチ、ノーヴゴロド公ヤロスラーフ・フセヴォローディチとともにこれを撃退した。ただしダヴィド・ムスティスラーヴィチは戦死。
以後の消息は不明。息子のヤロスラーフが1233年にリヴォニア騎士団にまじってプスコーフに侵攻しているので、それまでには死んでいたものと考えられる。
1979年にロシア正教会により、妃とともに聖者に列せられた。なお、ロシア正教会では、妃はアグリッピナ・ルジェーフスカヤと呼ばれる。