リューリク家人名録

スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチ

Святослав Ростиславич

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1158-60、62-68)

生:?
没:1169−ヴォロク

父:スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチキエフ大公ムスティスラーフ偉大公
母:?

結婚:?

子:

第10世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 ロスティスラーヴィチ兄弟の生年は、ダヴィドが1140年とされているので、その前後だろうと想像される。スヴャトスラーフがダヴィドの兄か弟かはよくわからないが、生年はおそらくそれほど違わないのではないか。

 1154年に父がキエフ大公となると、これに反発したロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイに派遣されたその子グレーブ・ユーリエヴィチがポーロヴェツ人を率いてペレヤスラーヴリを攻略。ロスティスラーヴィチ一族と激しく争うが、スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチもこの争乱には参加していた。
 その後も常に父の傍らにいて、諸公との戦いに従事する。敗戦により逃亡する途中で父が馬を失った時に、スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチが自身の乗馬を父に与えて逃がしたこともあったらしい。

 1157年、ユーリイ・ドルゴルーキイが死去。これにより、ユーリイ・ドルゴルーキイに反発する勢力が各地で盛り返すが、ノーヴゴロドでも支持派と反対派とが分裂して内紛状態に陥った。これに乗じた父がノーヴゴロドに侵攻を企て、ムスティスラーフ・ユーリエヴィチユーリイ・ドルゴルーキイの子)が逃亡。1158年、スヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチがノーヴゴロド公となった。あわせてトルジョークにはダヴィド・ロスティスラーヴィチが据えられた。

 1160年、ヴラディーミル=スーズダリ公アンドレイ・ボゴリューブスキイユーリイ・ドルゴルーキイの子)の脅迫に屈したノーヴゴロド市民により、スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチは家族とともに捕らえられ、ラードガに監禁される。
 しかしスヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチは逃亡し、ポーロツク公ローグヴォロド・ボリーソヴィチ(父の同盟者)のもとへ。
 1161年、アンドレイ・ボゴリューブスキイは父と講和。これにより、スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチはノーヴゴロド公に返り咲いた。

 1164年、ラードガに侵攻してきたスウェーデン軍を撃退する。

 約10年という、この時期には珍しい長期にわたってノーヴゴロド公位を保持した。しかしそれもこれも父の威光あったればこそ、父とアンドレイ・ボゴリューブスキイとの同盟関係があったればこそであり、スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチ自身はノーヴゴロド市民の公権力に対する自立傾向を抑えようと強権的姿勢で臨み、ノーヴゴロド市民との関係は悪かったらしい。
 1167年にはすでにスヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチのノーヴゴロド公位も揺らぎはじめていた。父は息子とノーヴゴロド市民とを仲裁しようと自ら乗り出してくるが、その途上で死去。
 スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチはノーヴゴロドを棄ててヴェリーキエ・ルーキに。さらにそこからトローペツに逃亡する。
 スヴャトスラーフ・ロスティスラーヴィチはアンドレイ・ボゴリューブスキイや兄たちの支援を得てノーヴゴロド公領を蹂躙。しかしノーヴゴロドを奪回できないまま、1169年か70年、死去。遺体はスモレンスクに埋葬された。

 ちなみにギリシャ語を話せたらしい。

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