ロスティスラーフ・リューリコヴィチ
Ростислав Рюрикович
トルチェスク公 князь Торческий (1195-1205)
キエフ大公 великий князь Киевский (1205)
ヴィーシュゴロド公 князь Вышгородский (1205-10)
ガーリチ公 князь Галицкий (1207)
生:1173
没:1214以前
父:キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ (スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ)
母:アンナ (トゥーロフ公ユーリイ・ヤロスラーヴィチ)
結婚:1189
& ヴェルフスラーヴァ公女 (ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
? | ロスティスラーフ | |||||
? | アンドレイ | |||||
1 | エヴフロシーニヤ |
第11世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。洗礼名ミハイール。
スモレンスク公の一族ではあるが、父がキエフに固執していたため、ロスティスラーフ・リューリコヴィチもキエフ公領で生まれ育った。
キエフ大公位を巡っては諸勢力が争っていたが、おおよそ1177年頃から父とスヴャトスラーフ・フセヴォローディチとが権力を分け合う形で落ち着いた。キエフ大公位こそスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが握ったが、父がキエフ公領のほとんどを領有していた。
ロスティスラーフ・リューリコヴィチの分領については種々の説があって一定しない。しかし、トルチェスクにせよベールゴロドにせよヴィーシュゴロドにせよ、キエフ近郊の都市であり、要するに父のもとでキエフ公領支配の一翼を担っていた、ということである。
1190年(89年)、キエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチによりトルチェスクを与えられ、対ポーロヴェツ人防衛を委ねられる。ロスティスラーフ・リューリコヴィチはすぐさまステップに出陣し、ポーロヴェツ人に対して大勝利を収めて帰還した。
1193年にもポーロヴェツ人と戦い、勝利を収めている。
1194年にスヴャトスラーフ・フセヴォローディチが死んだ時にはベールゴロド公。
スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの跡を継いでキエフ大公となったのは父だった。父は永年の同盟者であるヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ロマーン偉大公にキエフ公領からトルチェスク、トリポーリ、コルスニ、ボグスラーフ、カーネフの5都市を与えようとしたが、これにヴラディーミル=スーズダリ公フセーヴォロド大巣公が介入。自ら5都市を獲得し、トルチェスクを娘婿でもあるロスティスラーフ・リューリコヴィチに与えた。
これにより、父とロマーン偉大公の関係は同盟から対立に一転。ロスティスラーフ・リューリコヴィチも1196年にヴォルィニに侵攻し、これを蹂躙している。
1198年の時点でヴィーシュゴロド公。
1203年、ロマーン偉大公が父を捕らえ、強制的に修道士としてしまう。ロスティスラーフ・リューリコヴィチも捕らえられ、ガーリチに拘禁された。
その後、フセーヴォロド大巣公の仲介で釈放され、キエフへ。形式的にはロスティスラーフ・リューリコヴィチがキエフ大公となったが、実質的には都市キエフを支配したのみで、キエフ公領のほとんどはロマーン偉大公やその他の諸公に押さえられていた。もちろん諸公の盟主としての立場など認められなかった。
1205年、ロマーン偉大公が死に、父がキエフ大公位に返り咲いた。ロスティスラーフ・リューリコヴィチはヴィーシュゴロドからヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ(?)を追って、自らヴィーシュゴロド公となる。
1206年、父とともにガーリチに侵攻。しかしこれは失敗に終わる。
ガーリチ征服に成功したのはフセーヴォロド真紅公(かつての同盟者スヴャトスラーフ・フセヴォローディチの子)で、父もキエフを奪われた。
こうして一旦はロマーン偉大公に代わってフセーヴォロド真紅公が南ルーシの覇者となるが、父もスモレンスク系一族の力を結集してこれに対抗。キエフを奪還する。
さらに勢いを駆ってロスティスラーフ・リューリコヴィチはガーリチに侵攻。ロマーン・イーゴレヴィチと折り合いの悪かったガーリチのボヤーリンたち(どの公とも折り合いが悪かったが)から招かれ、ロマーン・イーゴレヴィチを追ってガーリチ公となる。しかしその年のうちに今度はロスティスラーフ・リューリコヴィチがガーリチのボヤーリンに追われ、ロマーン・イーゴレヴィチがガーリチ公に返り咲いた。
ロスティスラーフ・リューリコヴィチはその後ガーリチに積極的に関与していないようだ(もっとも、ロスティスラーフ・リューリコヴィチがガーリチ公となったのはもう少し後、1210年頃のことだとする説もある)。おそらく父がフセーヴォロド真紅公とキエフ大公位を巡って激しく争っていたため、ロスティスラーフ・リューリコヴィチも父の支援で忙しかったのだろう。
1210年、父はフセーヴォロド真紅公と講和し、チェルニーゴフ公となった。しかしこれには異説もあり、父はフセーヴォロド真紅公に敗北してチェルニーゴフに監禁されたとも言われる。Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 がロスティスラーフ・リューリコヴィチのヴィーシュゴロド公位を1210年までとしているのは、この時点でヴィーシュゴロドをフセーヴォロド真紅公に奪われたと考えているのだろう。なお、1214年の時点ではヴィーシュゴロドはフセーヴォロド真紅公の領土だった。
その後の生涯、および没年は不明。
1214年に父が死去。これに伴いキエフ大公位を巡るオーリゴヴィチとスモレンスク系との争いが再燃し、従兄弟のムスティスラーフ老公がキエフ大公に、弟のヴラディーミル・リューリコヴィチがスモレンスク公になった。この時点でロスティスラーフ・リューリコヴィチはすでに死んでいた、とする説もあるが、兄ではなく弟がスモレンスク公となっている以上、この説には首肯できる。
他方、ロスティスラーフ・リューリコヴィチが死んだのは1214年以降である、とする説もある(何に依ったか1218年と明記する文献もある)。父を筆頭に、スモレンスク系一族が本領スモレンスクよりもキエフに固執した伝統を思えば、スモレンスク公位を継がなかったからと言って、それがその時点ですでにロスティスラーフ・リューリコヴィチが死んでいた根拠とはならないとも言えよう。
ヴラディーミル・リューリコヴィチとの関連で、その後もキエフ公領で1219年まで生きたとする説もある。