リューリク家人名録

ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ

Ростислав Мстиславич

キエフ大公 великий князь Киевский (1240)

生:?
没:?

父:スモレンスク公ムスティスラーフ・ダヴィドヴィチスモレンスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチ
母:?

結婚:
  & ハンガリー王女アンナ?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1グレーブ-1278スモレンスク
2ミハイール
3フョードル-1299モジャイスクマリーヤヤロスラーヴリ公ヴァシーリイ・フセヴォローディチ
4コンスタンティーンエヴドキーヤアレクサンドル・ネフスキイ
?エヴフロシーニヤグレーブ・ロスティスラーヴィチステパニ公

第12世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 父親については、ムスティスラーフ老公とする説もある(が、おそらくは少数派)。

 1230年にムスティスラーフ・ダヴィドヴィチ(父?)が死んだ後、Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 はなぜか2年の空白を置いて1232年からスヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチが公位を継いだとしている。これはつまり年代記に空白があるからで、1232年にスヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチスモレンスク公位を奪ったことは記していても、かれに公位を奪われたのが誰かは記していないのである。
 この空白の2年間にスモレンスク公だったのがロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチだ、とする説もある(そちらの方が一般的か?)。
 ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがムスティスラーフ・ダヴィドヴィチの子だとすれば、年長権を無視して父の跡を継いだかれを、年長権を盾にスヴャトスラーフ・ムスティスラーヴィチが追った、ということになるだろう。
 ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチがムスティスラーフ老公の子だったとすれば、つまりは兄弟間の争いということになる。

 いずれにせよ、1239年(40年?)以前のロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチについては一切不明。

 1239年、キエフ大公ミハイール・フセヴォローディチが、モンゴルの襲来を怖れてキエフから逃亡。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはスモレンスクから南下しキエフ大公となる。スモレンスク公位も他人のもので、年代記的にはこれといった分領も持たず(本当に分領を持っていなかった、とは考えづらいが)、キエフ大公位に活路を見出そうとした、ということだろうか。もっとも、キエフに覇権を及ぼすというスモレンスク系一族の伝統に従った、ということもあろう。
 しかしミハイール・フセヴォローディチを受け入れたガーリチヴォルィニ公ダニイール・ロマーノヴィチが、自らキエフに侵攻。ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは逃亡した。

 前半生同様、これ以降のロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの消息も一切不明。

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