リューリク家人名録

ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ «ウダートヌィイ»

Мстислав Мстиславич "Удатный", "Удалой"

トローペツ公 князь Торопецкий (1181-1213)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1210-15、16-18)
ガーリチ公 князь Галицкий (1215-16、19-26)
トルチェスク公 князь Торческий (1226-28)

生:?
没:1228−トルチェスク

父:スモレンスク公ムスティスラーフ勇敢公スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ
母:? (リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ

結婚:
  & マリーヤ (ポーロヴェツ人のハーン・コテャン)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
マリーヤと
1ヴァシーリー-1218トルジョーク
2ロスティスラーヴァ/フェオドーシヤ-1244ヤロスラーフ・フセヴォローディチ1190-1246ヴラディーミル大公
3アンナダニイール・ロマーノヴィチ1201-64ガリツィア王
4エレーナ/マリーヤアンドラーシュ1210-34ハンガリー王アンドラーシュ2世

第11世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。洗礼名フョードル。

 ムスティスラーヴィチ兄弟については、わからないことが多い。通常はムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが3兄弟の長男で、しばしば父と最初の妃との唯一の子ともされる。実際、ヴラディーミルにせよダヴィドにせよ、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの従属的位置にいると言っていい。
 当時リューリコヴィチでは、子に父と同じ名が与えられることはなかった(これが一般化するのは100年後)。記録上父子関係が明らかな限りでは、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはその最初の例である。さらに一部の学者は、父子はムスティスラーフという世俗名だけでなく、洗礼名フョードルも共有していたと考えている(父も子も、洗礼名がフョードルであったかどうかははっきりしない)。名前には呪術的な役割があり、父の生存中に子に同じ名をつけることは当時は忌避されていた。このことから、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは父の死後に生まれたのではないかと考える学者も多い。
 実際、イパーティー年代記は父の死に際して、息子としてヴラディーミル・ムスティスラーヴィチの名しか挙げていない。年代記は、息子たちが幼年の場合、長男だけ挙げて残りは省くことが多いようなので、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチもこの時点ではまだ幼年だったということなのだろうが、だとしても、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチではなくヴラディーミル・ムスティスラーヴィチの名が挙げられているということは、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチが長男であったということを意味する。
 ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは1180年代の初頭には早くも従軍していることが年代記に記載されているが、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチについて従軍の記事が登場するのは1190年代に入ってからである。このことからも、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが、父の死後生まれたのかどうかは置いておくとしても、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチより年少であったことが推察される。
 要するに、弟の方が活発で目覚ましかっただけに、兄の影が薄くなってしまった、ということだろうか。

 1180年(1178年説も)、父が死去。上述のように、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの誕生はこれ以降ではないかと想像される。
 当時は伯父リューリク・ロスティスラーヴィチチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチと激しくキエフ大公位を争っており、スモレンスク公位には別の伯父ダヴィド・ロスティスラーヴィチが就いていた。ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチは1180年にキエフ近郊のトリポーリを与えられたとされているが、おそらく父を亡くしたムスティスラーヴィチ兄弟は、南ルーシのリューリク・ロスティスラーヴィチに引き取られたということなのだろう。
 ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチも、基本的にリューリク・ロスティスラーヴィチのもと南ルーシにいて、1193年にトリポーリ、1203年にはトルチェスクを与えられ、主にポーロヴェツ人との戦いに派遣されていた。妻はポーロヴェツ人のボスの娘だとのことなので、おそらく戦いの後始末の一環として政略結婚したのだろう。
 なお、この頃のムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの分領についてはよくわからないが(史料によって言っていることが違う)、トリポーリにせよトルチェスクにせよ、キエフ近郊の衛星都市。ただし Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 が挙げているトローペツは北ルーシ(現トヴェーリ州西端で、当時はスモレンスク領)。スモレンスク公の一族としてトローペツを与えられつつ、伯父によりキエフ近郊の護りを委ねられていた、というところか。もっとも、トローペツ公となったのは南ルーシを追われた後だとする史書もある。

 1207年、チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公がキエフに侵攻。リューリク・ロスティスラーヴィチは敗北し、トルチェスクも陥落。ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチもフセーヴォロド真紅公への臣従を余儀なくされた。
 1210年、フセーヴォロド真紅公リューリク・ロスティスラーヴィチは講和する。

 この頃ノーヴゴロドでは10年間にわたって、ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公が息子たちを公として派遣し、実権を掌握してきた。しかしヴラディーミルの影響力増大を懸念したノーヴゴロド民会は、1209年(11年?)、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを公として招聘。これに反発したフセーヴォロド大巣公は軍をトルジョークに派遣するが、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチもノーヴゴロド軍を率いてこれと対峙。結局戦火を交えることなく、フセーヴォロド大巣公に公位を認めさせて講和した。
 これにあわせて兄弟のヴラディーミル・ムスティスラーヴィチプスコーフ公とした(ただしヴラディーミル・ムスティスラーヴィチプスコーフ公となった方が先だとする説もある)。
 1210年(12年?)、ヴラディーミル・ムスティスラーヴィチとともにチューディ人の地に遠征し、これを屈服させる。

 1214年、伯父リューリク・ロスティスラーヴィチが死去。これを契機にキエフ大公位を巡る争いが再燃した。
 ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは一族やルーツク公イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチとともにノーヴゴロド軍を率いて南ルーシへ。ヴィーシュゴロド近郊でフセーヴォロド真紅公を破り、ヴィーシュゴロドに入城。フセーヴォロド真紅公はチェルニーゴフに逃げ去った。
 一旦はイングヴァーリ・ヤロスラーヴィチを、その後従兄弟ムスティスラーフ老公キエフ大公に就け、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはさらにチェルニーゴフを攻囲。フセーヴォロド真紅公は攻囲中に死去し、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはその弟グレーブ・スヴャトスラーヴィチと講和した。

 ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ不在中のノーヴゴロドではヴラディーミル派が巻き返し、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの公位も不安定になっていた。ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは自ら公位を降り、ノーヴゴロド公にはヤロスラーフ・フセヴォローディチフセーヴォロド大巣公の子)が就いた。ヤロスラーフ・フセヴォローディチはこの頃ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの娘婿となっているので、同意の上での人事かもしれない。

 ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが自らノーヴゴロド公位を降りたには理由があり、当時混乱状態にあったガーリチに野心を持ったからである。
 ガーリチでは1205年にロマーン偉大公が死んで後、その遺児ダニイール・ロマーノヴィチが追われ、地元ボヤーリン、ハンガリー、ポーランド、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイのイーゴレヴィチ兄弟などが入り乱れて覇権争いを繰り広げた。1215年当時、ハンガリーに大きな影響力を持っていたのがハンガリー王アンドラーシュ2世で、次男カールマーンをガーリチ公としていた。これに対抗するポーランド王レシェク1世白髪王がムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチを招いたのである。
 ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはカールマーンを追ってガーリチを平定。ダニイール・ロマーノヴィチには娘アンナを与えてこれを融和した。
 ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチとダニイール・ロマーノヴィチの同盟に反発したレシェク白髪王はアンドラーシュと結んだ。地元ボヤーリンの支持を得られず、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはハンガリー軍の侵攻を前に逃亡。

 1216年、ポーロヴェツ人のもとに逃亡し、かれらの支援を得てガーリチを奪還しようと考えていたムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは、ヤロスラーフ・フセヴォローディチと対立していたノーヴゴロド民会から招聘される。ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはすぐさまノーヴゴロドに馳せ参じ、公位に就く(ヤロスラーフ・フセヴォローディチは同時にペレヤスラーヴリ=ザレスキイ公でもあり、ノーヴゴロドは代官を通じて支配していた)。
 従兄弟ヴラディーミル・リューリコヴィチとともに、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはヴラディーミルに侵攻。ヤロスラーフ・フセヴォローディチに講和を拒否されると、トヴェーリを焼き打ち。
 当時ヴラディーミルでは、フセーヴォロド大巣公死後、長子コンスタンティーン賢公と次子ユーリイ・フセヴォローディチが対立し、これに弟たちも絡んで内紛が延々と続いていた。ヤロスラーフ・フセヴォローディチユーリイ・フセヴォローディチを支援していたこともあり、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはコンスタンティーン賢公と同盟。ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチとヤロスラーフ・フセヴォローディチとのノーヴゴロドを巡る対立は、ヴラディーミル系の内紛と絡み、さらにヴラディーミル・リューリコヴィチ(スモレンスク公)がムスティスラーフ側に、ユーリイ・フセヴォローディチや弟たち、ムーロム系諸公までもがヤロスラーフ側に立ったことから、スモレンスク系とヴラディーミル系との北ルーシの覇権をかけた争いにまで発展した。
 決着は、リピツ河畔の戦いでついた。スモレンスク系とコンスタンティーン賢公の連合軍がヴラディーミル・ムーロム連合軍を破り、勢いを駆ってヴラディーミルを攻囲。ユーリイ・フセヴォローディチはヴラディーミルを明け渡し、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチもヤロスラーフ・フセヴォローディチと講和した(しかし娘は取り戻した)。

 しかしムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはノーヴゴロドに居着くことがなかった。あるいは公権力に反発的なノーヴゴロドのボヤーリンや市民に嫌気が差していたのかもしれない。1218年、民会が引きとめるにもかかわらず、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはノーヴゴロドを去った(この年、息子ヴァシーリーが死んだことも関係しているかもしれない)。

 かつての計画通りステップに赴きポーロヴェツ人を雇ったムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは、1219年、ガーリチに侵攻。ハンガリー軍を破り、これを平定した。

 1223年、義父にあたるポーロヴェツ人のハーン、コテャンから、モンゴル人との戦いを支援するよう要請される。モンゴル軍はホラズム・シャーを追ってカフカーズから南ロシア平原に進んできたものだった。
 ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはムスティスラーフ老公チェルニーゴフ公ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチとともに、ポーロヴェツ軍と合流してカルカ河畔でモンゴル軍を迎え撃った。
 しかしムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチは残るふたりのムスティスラーフと連携することなく単独で渡河。準備が整う前に戦闘が始まったためにふたりのムスティスラーフの軍は潰走し、ポーロヴェツ軍も逃亡。3人のムスティスラーフのうち生きて帰ることができたのはムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチだけだった。
 なお、モンゴル軍はこの時はそのまま本土に帰還。本格的なルーシ(ヨーロッパ)侵攻は14年後のことになる。

 ダニイール・ロマーノヴィチはムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと協調しながらヴォルィニを支配していたが、ガーリチもまた父の遺領である。このためムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチとの関係も徐々に悪化。1225年にはダニイール・ロマーノヴィチがレシェク白髪王と結んでムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチと戦うまでになった。
 これに対してムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはアンドラーシュ2世に接近。1226年にはその三男アンドラーシュに娘とペレムィシュリを与えたが、レシェク白髪王はアンドラーシュにも接近し、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはふたりの娘婿と争う羽目に陥った。
 ズヴェニーゴロドに侵攻したハンガリー軍を撃退したムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチだったが、もともとノーヴゴロドのボヤーリンと同様に公の権力に反発するガーリチのボヤーリン勢力が強いことが、ガーリチが不安定な最大の要因だったと言っていいだろう。その中心的な存在だったスディスラーフ(かつてムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ自身がズヴェニーゴロドの代官に任命していた)に説得され、1227年、ムスティスラーフ・ムスティスラーヴィチはガーリチをアンドラーシュに譲渡。自らはキエフ近郊のトルチェスクに退いた(当時のキエフ大公は従兄弟のヴラディーミル・リューリコヴィチ)。

 1228年、キエフに赴く途上で病に陥り、修道士となって死んだ。

 ちなみに添え名の «ウダートヌィイ» は、「幸運の・成功の」といった意味。しばしば «ウダローイ»(向こうっ気の強い)とも呼ばれるが、おそらくこれは «ウダートヌィイ» との音の相似が生んだ混乱。

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