リューリク家人名録

ムスティスラーフ・ロマーノヴィチ «スタールィイ»

Мстислав Романович "Старый"

プスコーフ公 князь Псковский (1178-95)
スモレンスク公 князь Смоленский (1197-1214)
ベールゴロド公 князь Белгородский (1206)
キエフ大公 великий князь Киевский (1214-23)

生:?
没:1223.06.02

父:スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ
母:マリーヤ (ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1スヴャトスラーフ
2フセーヴォロド-1249
3アレクサンドル・グレーボヴィチドゥブローヴィツァ公
4アガーフィヤ-1220/21コンスタンティーン賢公1186-1219ロストーフ公
5アンドレイ・ヴラディーミロヴィチ-1223ヴャージマ公
?ロスティスラーフ

第11世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。洗礼名ボリース。

 生年はわかっていないが、両親の結婚が1149年頃とされていること、次男と考えられることから、おそらく1150年代前半といったところだろう。もっとも、そうすると70歳にもなってモンゴルとの戦いに出陣したことになる。あり得ないことではないだろうが、生年がもう少し遅かったのかもしれない。

 1177年、父に従い対ポーロヴェツ人遠征に従軍。ロストーヴェツ近郊で大敗を喫した。

 1179年、プスコーフ公。当時ノーヴゴロドは父と叔父ムスティスラーフ勇敢公が支配していたので、ムスティスラーフ・ロマーノヴィチがプスコーフに派遣されたのだろう。
 1180年、父が死去。スモレンスク公位は叔父のダヴィド・ロスティスラーヴィチが継いだ。しかしこの年、同時にムスティスラーフ勇敢公も死去。これによりノーヴゴロドにおけるスモレンスク系諸公の覇権も崩れ(新任のノーヴゴロド公はオーリゴヴィチのヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ)、ムスティスラーフ・ロマーノヴィチのプスコーフ公位も不安定化したと思われる。かれがいつまでプスコーフ公であったかはっきりしないのも、それが一因だろう(1195年まで、というのは Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 の説でしかない)。

 1185年、対ポーロヴェツ人遠征に従軍。『イーゴリ軍記』のイーゴリ・スヴャトスラーヴィチがポーロヴェツ人に大敗を喫するのは、これとは別の遠征。

 1196年、叔父ダヴィド・ロスティスラーヴィチに派遣され、ヴィテブスクに侵攻したオレーグ・スヴャトスラーヴィチと戦う。ムスティスラーフ・ロマーノヴィチはオレーグ・スヴャトスラーヴィチを撃退するが、オレーグ・スヴャトスラーヴィチと同盟して侵攻してきたポーロツク軍(? 当時のポーロツク公が誰かよくわかっていない)の捕虜となる。
 1197年、ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公(スモレンスク系諸公の長年の同盟者)がチェルニーゴフ公ヤロスラーフ・フセヴォローディチオレーグ・スヴャトスラーヴィチの叔父)と講和した際、ムスティスラーフ・ロマーノヴィチは釈放された。
 この年、ダヴィド・ロスティスラーヴィチが死去。叔父リューリク・ロスティスラーヴィチがキエフに固執していたからだろう、ムスティスラーフ・ロマーノヴィチがそれに次ぐスモレンスク系諸公の最年長権者としてスモレンスク公位を継いだ(実際に年齢的にもリューリク・ロスティスラーヴィチに次ぐ最年長であったと思われるが、正確なところは不明)。

 1205年、ヴォルィニとガーリチに公として君臨し、キエフをも制圧して南ルーシの覇権を握っていたロマーン偉大公が死去。リューリク・ロスティスラーヴィチは仇敵であるチェルニーゴフ系諸公、またノーヴゴロド=セーヴェルスキイのイーゴレヴィチ兄弟(チェルニーゴフ系諸公の一族)とも結んで、先ずキエフを奪回し、さらにガーリチ征服に乗り出した。
 1206年、ムスティスラーフ・ロマーノヴィチも、スモレンスク系諸公、チェルニーゴフ系諸公、イーゴレヴィチ兄弟を引き連れたリューリク・ロスティスラーヴィチのガーリチ遠征に従軍。しかしこの遠征の成果はイーゴレヴィチ兄弟に独占され、さらにチェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公がキエフを奪取。リューリク・ロスティスラーヴィチはオーヴルチに逃亡し、ムスティスラーフ・ロマーノヴィチもベールゴロドに籠城した。
 1207年、ムスティスラーフ・ロマーノヴィチはベールゴロドを追われ、スモレンスクに逃げ帰った。その年のうちにスモレンスク系一族はフセーヴォロド真紅公を追ってキエフを奪回している。
 その後もリューリク・ロスティスラーヴィチフセーヴォロド真紅公を中心としたスモレンスク系諸公とチェルニーゴフ系諸公との争いは続いた。

 1214年、リューリク・ロスティスラーヴィチが死去。ムスティスラーフ・ロマーノヴィチは従兄弟のノーヴゴロド公ムスティスラーフ幸運公とともに、スモレンスク軍、ノーヴゴロド軍を率いて南下。ヴィーシュゴロドでチェルニーゴフ軍を破り、キエフを奪取した。さらにチェルニーゴフを攻囲中、フセーヴォロド真紅公が死去。その弟グレーブ・スヴャトスラーヴィチと講和し、ヴィーシュゴロドを割譲させた。
 なお、この時ルーツク公イングヴァーリ・ヤロスラーヴィチが一旦キエフ大公となり、その後にムスティスラーフ・ロマーノヴィチがキエフ大公となった、とする史書がある。
 キエフ大公となったムスティスラーフ・ロマーノヴィチは、従兄弟のヴラディーミル・リューリコヴィチスモレンスク公位を与えた。

 キエフを巡っては長い間争乱が続いてきていたが、チェルニーゴフ系ではチェルニーゴフ公グレーブムスティスラーフのスヴャトスラーヴィチ兄弟が大人しくしていたし、ヴォルィニ系では本領ガーリチ=ヴォルィニを巡る争いでキエフどころではなかったし、ヴラディーミル系でもヴラディーミル大公位を巡る兄弟間の争いが持ち上がって、これにスモレンスク系が介入して、結局ヴラディーミルとノーヴゴロドに対する影響力を確保したスモレンスク系一族が北ルーシの覇権を握った。ということでスモレンスク系のムスティスラーフ・ロマーノヴィチのキエフ大公位も安定したものであったようだ。
 なお、ガーリチ=ヴォルィニを巡る争いの一方の当事者となり、またヴラディーミル大公位を巡る兄弟間の内紛に介入したのが、従兄弟のムスティスラーフ幸運公だった。ムスティスラーフ・ロマーノヴィチがこれらにどうかかわったのかよくわからない(と言うより、おそらくかかわっていない)。

 1221年、ガーリチに侵攻したハンガリー軍を、ガーリチに遠征して撃退する。当時のガーリチ公ムスティスラーフ幸運公

 1223年、ホラズム・シャーを追ってカスピ海・ウラル山脈を越えたモンゴル軍が、テュルク系諸民族を撃破しつつ南ロシア平原(当時はキエフ・ルーシの版図ではなくポーロヴェツ人の地)に出現。ポーロヴェツ人のハーン、コテャンは、ルーシ諸公に救援を要請した。
 コテャンの娘婿でもあったムスティスラーフ幸運公をはじめ、キエフに集まった諸公は協議の結果、モンゴル軍を迎え撃つことを決議(「Лучше нам принять их на чужой земле, чем на своей. (自分の土地でかれらを迎え撃つよりは、他人の土地で迎え撃った方がいい)」)。
 ルーシ軍は、ムスティスラーフ・ロマーノヴィチ、ムスティスラーフ幸運公チェルニーゴフ公ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチの3人のムスティスラーフに率いられ、従兄弟ヴラディーミル・リューリコヴィチヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ダニイール・ロマーノヴィチルーツク公ムスティスラーフ聾唖公など10人以上の諸公が従軍した。ドニェプルを渡河して、ポーロヴェツ軍と合流。
 モンゴル軍との戦闘が行われたのは、現ウクライナ南東の港湾都市マリウーポリ(ソ連時代はジュダーノフ)の北方、カルカ河畔において。ムスティスラーフ幸運公の率いるガーリチ=ヴォルィニ軍はポーロヴェツ軍とともにカルカを渡河したが、モンゴル軍に敗退し潰走。渡河せず右岸に残ったムスティスラーフ・ロマーノヴィチ率いる主力軍は、渡河した軍が攻撃を始めたとも知らず(諸公間に戦術を巡る対立があり、ムスティスラーフ幸運公が独断専行した、と年代記は伝えている)、準備の整わないうちにモンゴル軍の攻撃を受けたものの、3日間にわたり陣地を護り抜いた(モンゴル軍の主力は逃げたルーシ・ポーロヴェツ軍を追った)。
 ムスティスラーフ・ロマーノヴィチは、身代金と引き換えに釈放するというモンゴル軍の誓約を信じて降伏。しかしモンゴル軍はムスティスラーフ・ロマーノヴィチを殺した。かれを板の下に敷いて、その上で祝宴を張ったという。
 なお、ムスティスラーフ幸運公ヴラディーミル・リューリコヴィチダニイール・ロマーノヴィチムスティスラーフ聾唖公は生き延びたが、ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチとその子ヴァシリコ・ムスティスラーヴィチ、ムスティスラーフ聾唖公のふたりの甥ら6人の公がドニェプルへの逃亡途上で殺された。

 添え名の «スタールィイ» は「古い」。人について使われる場合には、「年老いた・老齢の」という意味。
 系図を見てもらえば一目瞭然だが、この時期スモレンスク系にはムスティスラーフという名の持ち主が多くいた。ほかのムスティスラーフと区別するために、同世代では年長だったムスティスラーフ・ロマーノヴィチが «スタールィイ» と呼ばれたのだろうか。あるいはカルカ河畔で戦ったほかのムスティスラーフよりも年長だったということか。
 ちなみに当時、スモレンスク系には同世代に3人のムスティスラーフがいた(従兄弟同士)。

ムスティスラーフ生年分領父親
ロマーノヴィチ老公1150s?スモレンスク公 1197-1213
キエフ大公 1214-23
ロマーン・ロスティスラーヴィチ
ダヴィドヴィチ1193スモレンスク公 1219-30ダヴィド・ロスティスラーヴィチ
ムスティスラーヴィチ幸運公1180?ノーヴゴロド公 1210-15, 16-18
ガーリチ公 1215-16, 19-26
ムスティスラーフ勇敢公
スヴャトスラーヴィチ1150s?チェルニーゴフ公 1219-23スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ
ヤロスラーヴィチ聾唖公1150s?ルーツク公 1214?-26ヤロスラーフ・イジャスラーヴィチ

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