モノマーシチの一系統。ムスティスラーフ偉大公(8)の子ロスティスラーフ(9)を始祖とする。
ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチ(9)がキエフ大公となって以来、一族は代々南ルーシのキエフ公領内に勢力を保持。リューリコヴィチは各系統がそれぞれの領土内で一族に分領を分配していたが、スモレンスク系にはそれがほとんど見られず、スモレンスク公領はひとりのスモレンスク公が一元的に支配していた(例外がムスティスラーフ勇敢公(10)の系統のトローペツ公領)。
あぶれた一族の多くが消息不明か、でなければひと山当てるために南ルーシに赴いている。
これもあってか、モンゴルの襲来まで、最も執拗にキエフ大公位を狙ったのがスモレンスク系の一族であった。キエフ大公位そのものを獲得できずとも、キエフ公領内に領土を保持し、南ルーシに大きな影響力を確保。南ルーシの覇権を巡ってチェルニーゴフ系のオーリゴヴィチと激しく争っている。
モンゴルの襲来では、スモレンスク自体はほとんど被害を受けなかったものの、一族を取り巻く環境は大きく変化した。
まず、キエフがもはや一族を惹きつけることがなくなった。南ルーシに出払っていた一族はやがて姿を消し、新たにスモレンスクから南ルーシへと赴く者も現れなくなる。
このため、あぶれる一族が増え、分領が誕生した。それまでは、上述のように、トローペツ公領を例外としてスモレンスク公領には分領が存在しなかったと思われる。ただしヴャージマとフォミンスクについては、その起源が必ずしも明確ではないが、分領として存在していたことが確実なのは、やはりモンゴル襲来後である。おそらくこのため、この頃からスモレンスク公は «大公» を自称するようになった。
また、南ルーシに進出することがなくなった代わりに、オーリゴヴィチの領土であったブリャンスクに勢力を拡大した。正確なところは不明だが、おそらく13世紀末から100年間、スモレンスク系の一族がブリャンスク公位を占めたと考えられる。
第四に、西方にてリトアニアが台頭を始めた。モンゴルの襲来で崩壊したキエフ・ルーシは相次いでリトアニア領となり、早くも1239年と1248年にはリトアニアがスモレンスクに攻め込んできている。
14世紀、一族は西からリトアニアの、東からモスクワの圧迫を受け、次々に分領を失いつつも(モジャイスク、ブリャンスク、ムスティスラーヴリ等々)、その双方のバランスを取りながら何とか独立を維持していた。しかし分領公たちの中には、すでにリトアニア大公やモスクワ大公の勤務公となっていた者もいた。その数は徐々に増加していき、ついにはスモレンスク大公自身がリトアニア大公に臣従するにいたる。
こうして15世紀初頭、スモレンスク大公領はリトアニアに併合された。
その後も、一族の多くがリトアニア貴族ないしモスクワ貴族として存続している。ただし、正確にその系譜を跡付けることはできない。ヴャーゼムスキイ家、モナストィリョーフ家(ムーソルグスキイ家)、ネトシン家(ドミートリエフ=マモーノフ家)、タティーシチェフ家、クロポートキン家、ダーシュコフ家、エロプキーン家、等々。
特にヴャーゼムスキイ家などは、すでに1301年からヴャージマ公の存在が確認されるにもかかわらず、その系譜ははっきりしない。
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赤枠はスモレンスク公。