グレーブ・スヴャトスラーヴィチ
Глеб Святославич
スモレンスク大公 великий князь Смоленский (1392-95)
生:?
没:1399.08.12−ヴォールスクラ河畔
父:スモレンスク大公スヴャトスラーフ・イヴァーノヴィチ (スモレンスク大公イヴァン・アレクサンドロヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
母親不詳 | ||||||
1 | ドミートリイ | ジジュマ |
第17世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。
スヴャトスラーヴィチ兄弟の生年は不明。グレーブ・スヴャトスラーヴィチの生年を1353年頃としている文献があるが、根拠は不明ながら、妥当な数字だろうと思われる。
問題はユーリイ・スヴャトスラーヴィチとの長幼の順で、どちらが兄でどちらが弟かは不明。
1386年、リトアニアの支配するムスティスラーヴリを奪還しようと、父が出陣。グレーブとユーリイの兄弟も従軍していた。
しかしムスティスラーヴリは陥落せず。さらにリトアニア軍が救援に駆け付け、スモレンスク軍は大敗を喫した。父は戦死。グレーブとユーリイの兄弟もリトアニアの捕虜となり、さらにスモレンスクもリトアニア軍に占領された。
リトアニア軍を率いていたヴィタウタスは、ユーリイ・スヴャトスラーヴィチをスモレンスク大公とし、事実上スモレンスクを属国化した。
他方でグレーブ・スヴャトスラーヴィチはヴィタウタスの捕虜としてリトアニアに連れていかれたらしい。1389年にリトアニアで内紛が勃発すると、ヴィタウタスによってその同盟相手のドイツ騎士団に引き渡されたりもしたようだ。いつ釈放されたのかは不明。
1392年、スモレンスク市民がユーリイ・スヴャトスラーヴィチを追うと、グレーブ・スヴャトスラーヴィチはリトアニア大公となっていたヴィタウタスの支援を得て、スモレンスク大公位を獲得。
1395年、ヴィタウタスはスモレンスク系一族をヴィリニュスに召喚。スモレンスク大公位への望みを持った諸公はこぞって供物を手にヴィタウタスのもとへ赴いたという。しかしヴィタウタスはかれらをすべて捕らえると、自らスモレンスクに赴き、攻略して、代官を置いた。スモレンスクはリトアニアに併合された。
グレーブ・スヴャトスラーヴィチは以後リトアニア貴族となる。
1399年、ヴィタウタスに従ってタタールとの戦いに従軍。ヴォールスクラ河畔の戦いでリトアニア軍はハーン軍に大敗を喫し、グレーブ・スヴャトスラーヴィチも戦死した。
息子ドミートリイ・グレーボヴィチの子孫は、ポーランド貴族ジジェムスキイ公家。現存する(らしい)。
また、ロシア貴族コルコーディノフ公家もグレーブ・スヴャトスラーヴィチの子孫だとも言われる(おそらく通常は弟イヴァン・スヴャトスラーヴィチの子孫とされている)。