リューリク家人名録

アレクサンドル・ユーリエヴィチ «モナストィリ»

Александр Юрьевич "Монастырь"

князь

生:?
没:?

父:ユーリイ・スヴャトスラーヴィチ公 (ブリャンスク公スヴャトスラーフ・グレーボヴィチ)?
母:? (ヴァシーリイ・ヤロスラーフスキイ公)

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
ドミートリイ-1378
イヴァン
ヴァシーリイ

第?世代。モノマーシチ(スモレンスク系)。

 父親は「フョードル・スヴャトスラーヴィチ・スモレンスキイの弟ユーリイ」とされているが、そもそもこのフョードル・スヴャトスラーヴィチ・スモレンスキイなる人物が誰かが明確ではない。
 しかし14世紀のおそらく前半という年代も考えてみると、おそらくフョードル・スヴャトスラーヴィチというのはこのフョードル・スヴャトスラーヴィチだろうし、父親たるスヴャトスラーフはスヴャトスラーフ・グレーボヴィチしか該当する人物が存在しない。
 ということで、おそらくスヴャトスラーフ・グレーボヴィチにはユーリイという息子がいたのだろう、と想像される。ちなみに、そうだとするとアレクサンドル・ユーリエヴィチは第16世代。

 母方の祖父ヴァシーリイ・ヤロスラーフスキイが誰かも、これだけではよくわからない。しかしヤロスラーヴリ公の系統でヴァシーリイというと、ヴァシーリイ・フセヴォローディチ、その子ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチ、ヴァシーリイ雷眼公、その子ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチぐらいしかいない。
 このうちヴァシーリイ雷眼公は1330年に結婚し、子供はそれ以降の誕生。これではアレクサンドル・ユーリエヴィチの祖父になるには遅すぎる。当然、1339年生まれのその子ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチは論外である。
 他方で、ヴァシーリイ・フセヴォローディチは1229年生まれ、1249年没と、こちらはあまりに早すぎる。その遺児ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの生年はどう考えても1249年頃、没年は、叔父コンスタンティーン・フセヴォローディチが死んでロストーフ系のヤロスラーヴリ公家が断絶した1257年以前。ということは、ヴァシーリイ・ヴァシーリエヴィチの享年は10歳未満だったことになる。娘など残せはしない。
 ということで、現在残る記録だけからは、アレクサンドル・ユーリエヴィチの母方の素性はわからないとしか言えない。

 アレクサンドル・ユーリエヴィチは幼くして父を亡くし、母方の祖母アナスタシーヤによって修道院(モナストィリ)で育てられた。添え名 «モナストィリ» はこれに由来する、とされている。
 もっともアレクサンドル・ユーリエヴィチについては家系図に記録が残っているだけであり、この話もおそらくはのちになってモナストィリョーフという家名の由来をでっち上げたものだろう。
 家系図に記録が残っているだけ、である以上、その生涯についても何もわかっていない。

 モナストィリョーフ家、ムーソルグスキイ家、ソローミン家等の祖。かの大作曲家もかれの子孫である。

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