リューリク家人名録

フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチ «ブイ=トゥール»

Всеволод Святославич "Буй-Тур"

トルブチェフスク公 князь Трубчевский

生:?
没:1196.05.17−チェルニーゴフ

父:チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチチェルニーゴフ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチ
母:マリーヤ (ノーヴゴロド市長ペトリール)

結婚:
  & オリガ公女 (ペレヤスラーヴリ公グレーブ・ユーリエヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
オリガ・グレーボヴナと
スヴャトスラーフ

第9世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 «イーゴリ公» の弟で、『イーゴリ軍記』の主要登場人物。兄のイーゴリ・スヴャトスラーヴィチが1151年の生まれとされるので、フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチも1150年代前半の生まれだったろう。

 1164年、父が死ぬ。チェルニーゴフは従兄弟スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが継ぎ、代わりにノーヴゴロド=セーヴェルスキイが長兄オレーグ・スヴャトスラーヴィチに与えられた。フセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチは次兄イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ同様、分領を与えられなかった。ふたりともまだ幼すぎると考えられたのだろう。長兄オレーグ・スヴャトスラーヴィチの居候として暮らす(プティーヴリを与えられたとの説もある)。

 1169年、キエフ大公ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチに従いポーロヴェツ人遠征。

 1175年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチに従いスタロドゥーブに遠征。これに対する褒賞として、オレーグ・スヴャトスラーヴィチが自領から領土を分け与えてくれた。
 1180年にはスヴャトスラーフ・フセヴォローディチに従って北東ルーシへ。ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公とともにリャザニ諸公を屈服させる。

 1183年にはイーゴリ・スヴャトスラーヴィチとともに対ポーロヴェツ人遠征。
 なおフセーヴォロド・スヴャトスラーヴィチはこの時点でクールスクとトルブチェフスクを領有していた。長兄オレーグ・スヴャトスラーヴィチは1180年に死に、イーゴリ・スヴャトスラーヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキイを継いでいたので、あるいはその時に分領としてもらったのかもしれない。

 1185年、イーゴリ・スヴャトスラーヴィチとともにポーロヴェツ人への遠征に出発。敗北を喫し、兄ともどもポーロヴェツ人の捕虜となる。1187年、身代金を払ってもらい、甥ヴラディーミル・イーゴレヴィチとともに帰国した。

 1191年、改めてイーゴリ・スヴャトスラーヴィチとともに対ポーロヴェツ人遠征。もっとも、この時は一戦も交えずに帰還した。

 年代記によると、かれはその善良さと勇敢さで人々から大変愛され、その死に際しては誰もが嘆き悲しんだと言う。チェルニーゴフ司教により遺骸はチェルニーゴフに運ばれ、そこに埋葬された。

 なお、添え名の «ブイ» は「激しい、向う見ずな」といった意味。«トゥール» は現在絶滅したヨーロッパ野牛のこと。つまりは «ブイ=トゥール» で「猛々しい野牛」といった程度の意味か。

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