リューリク家人名録

ヴラディーミル・イーゴレヴィチ

Владимир Игоревич

プティーヴリ公 князь Путивльский (1185-98、1207-08)
ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公 князь Новгород-Северский (1198-1206)
ガーリチ公 князь Галицкий (1206-07、08-11)

生:1172頃
没:?

父:ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ
母:?

結婚:1185
  & スヴォボーダ (ポーロヴェツ人のハーン・コンチャク)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
スヴォボーダ・コンチャコヴナと
1イジャスラーフ1186-セーヴェルスキイ
フセーヴォロドセーヴェルスキイ?

第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。洗礼名ピョートル。

 『イーゴリ軍記』の主人公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチの長男。
 ただし母親については諸説ある。『イーゴリ軍記』のヒロインとも言うべきイーゴリ・スヴャトスラーヴィチの妻ヤロスラーヴナガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルの娘で、のちにイーゴレヴィチ兄弟が執拗にガーリチ領有を目指す動機としてはこの上ない。しかし彼女は1185年の時点で言わば新婚ほやほやだったらしく、『イーゴリ軍記』でも活躍しているヴラディーミル・イーゴレヴィチの母親とは到底思えない。そこでヤロスラーヴナは後妻で、ヴラディーミル・イーゴレヴィチは先妻の子だったのだろうと想像されている。
 なお、弟たちについては同母弟説と異母弟説とがある。

 幼くして父からプティーヴリを与えられていたと考えられる。
 1185年、父とともにポーロヴェツ人との戦いに出征し、捕虜となる。ハーン・コンチャクの娘と結婚し、子を設けて、1187年、ルーシに帰還。

 1198年、父がチェルニーゴフ公になる。これに伴い、ヴラディーミル・イーゴレヴィチは父の後を襲ってノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公となった。なおプティーヴリは弟ロマーン・イーゴレヴィチに与えられた。
 しかしこれには異説がある。詳細はイーゴリ・スヴャトスラーヴィチの項を参照していただきたいが、20も年長のオレーグ・スヴャトスラーヴィチを差し置いてヴラディーミル・イーゴレヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公になったとは思われない。何より、そんな分領を有していたのなら、1205年以降執拗にガーリチを狙った動機がいまひとつピンとこない。
 1202年に父が死ぬが、チェルニーゴフ公位は従兄弟のオレーグ・スヴャトスラーヴィチフセーヴォロド真紅公が相次いで相続した。

 1205年、ガーリチヴォルィニ公ロマーン偉大公が死去。後を継いだダニイール・ロマーノヴィチは幼く、キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチフセーヴォロド真紅公、そしてヴラディーミルらイーゴレヴィチ兄弟がガーリチに侵攻した。
 この時はダニイール・ロマーノヴィチを支援していたハンガリー軍に撃退されたが、翌1206年に再度ガーリチに侵攻。ガーリチ貴族も侵攻軍を支持し、ダニイール・ロマーノヴィチはヴラディーミル=ヴォルィンスキイに逃亡。ガーリチ貴族に推されてヴラディーミルがガーリチ(都市)、ロマーンズヴェニーゴロド(ガーリチの)をそれぞれ支配することになった。
 さらにヴォルィニ貴族もふたつに割れて、ダニイール・ロマーノヴィチはハンガリーに逃亡。イーゴレヴィチ兄弟の末弟スヴャトスラーフヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公になった。

 この直後から、ガーリチの支配を巡り、ヴラディーミル・イーゴレヴィチとロマーン・イーゴレヴィチとの間に対立が勃発。もしこのふたりが異母兄弟で、ロマーン・イーゴレヴィチヤロスラーヴナの子だとしたら、この対立の原因も明白であろう。
 1207年、ハンガリー王アンドラーシュ2世と結んだロマーン・イーゴレヴィチにより、ヴラディーミル・イーゴレヴィチはガーリチ(都市)から追われ、旧領プティーヴリに逃亡。しかしロマーン・イーゴレヴィチもまた、やがてハンガリーにガーリチから追われる。

 1208年、ハンガリー支配下に呻吟するガーリチ市民に再び乞われ、イーゴレヴィチ兄弟はガーリチに帰還。ハンガリー総督ベネディクトを追い、ガーリチを兄弟で分割した。即ち、ヴラディーミルはガーリチ(都市)に、ロマーンはズヴェニーゴロドに、スヴャトスラーフはペレムィシュリに(スヴャトスラーフも1207年にヴラディーミル=ヴォルィンスキイを追われていた)、ヴラディーミルの子イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはテレボーヴリに。
 ヴラディーミル・イーゴレヴィチは次男フセーヴォロド・ヴラディーミロヴィチをハンガリー王アンドラーシュ2世のもとに派遣し、そのガーリチへの介入を金で抑えようとした。
 他方、ガーリチ内の内紛を抑えるため、ヴラディーミル・イーゴレヴィチはロマーン偉大公の先例に倣い、従士団を虐殺。1211年、これに反発したガーリチ貴族に、アンドラーシュ2世が亡命していたダニイール・ロマーノヴィチと軍を与え、さらにヴォルィニ貴族も同調。ペレムィシュリとズヴェニーゴロドが陥落。ヴラディーミル・イーゴレヴィチはガーリチから逃亡したが、弟たちはガーリチ貴族によって首を吊るされた。

 ヴラディーミル・イーゴレヴィチ自身のその後については不明。年代記にも登場しないことから、おそらくしばらくして死んだものと考えられる。なお、次男フセーヴォロドについても年代記は沈黙している。

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