スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ
Святослав Игоревич
クールスク公 князь Курский (-1206)
ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公 князь Владимирский (1206-07)
ペレムィシュリ公 князь Перемышльский (1210-11)
生:1176
没:1211
父:ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ (チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)
母:?
結婚:1187
& ヤロスラーヴァ公女 (キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
ヤロスラーヴァ・リューリコヴナと | ||||||
1 | アガーフィヤ | -1247/48 | コンラート | 1187?-1247 | マゾフシェ公・ポーランド王 | |
? | オレーグ | クールスク | ||||
? | ドミートリイ |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。洗礼名アンドリアーン。
父は『イーゴリ軍記』の主人公。ただし母については、『イーゴリ軍記』のヒロインとも言うべきヤロスラーヴナとする説と、先妻とする説とがある。もしヤロスラーヴナであったとすれば、彼女はガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスルの娘であったので、のちにイーゴレヴィチ兄弟が執拗にガーリチを狙う動機としては十分である。しかし年齢的には先妻の子と考えるべきだろうか。
『イーゴリ軍記』の主題である1185年の遠征には、スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチはまだ幼かったためか従軍していない。
1198年に父はチェルニーゴフ公となり、長兄ヴラディーミルがノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公に、次兄ロマーンが(おそらく)プティーヴリ公となった。とすると、おそらくスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチもこの時にクールスク公となったと見ていいだろう。ただし1198年にヴラディーミル・イーゴレヴィチがノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公になったか否かについては異論もある。
1205年、ガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公が死去。跡を継いだのは幼児ダニイールとヴァシリコのロマーノヴィチ兄弟だった。
ロマーン偉大公に屈服していたその仇敵の、キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチとチェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公とともに、イーゴレヴィチ3兄弟もガーリチに侵攻。しかしガーリチに駐屯していたハンガリー軍に撃退された。
1206年、改めてガーリチに侵攻。ガーリチのボヤーリンたちの支持も得て、ヴラディーミルがガーリチ(都市)を、ロマーンがズヴェニーゴロド(ガーリチの)を獲得。ダニイール・ロマーノヴィチはヴォルィニに逃亡した。
しかしヴォルィニのボヤーリンも一枚岩ではなく、ダニイール・ロマーノヴィチがハンガリーに逃亡すると、スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチがヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公となった。ヤロスラーフ・オスモムィスルが何の権利も持たないヴラディーミル=ヴォルィンスキイの公にスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチが就いたということは、つまりはイーゴレヴィチ兄弟のガーリチ侵攻は権利の有無とは無関係で、スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチの母はヤロスラーヴナではなかったということだろう。
しかしヴォルィニにはポーランドも、ガーリチにはハンガリーも食指を伸ばしていた。ガーリチのボヤーリンもイーゴレヴィチ兄弟を招いたとはいえ、それも現在の公に対する反発からであり、今度は公となったイーゴレヴィチ兄弟に反発する。ヴォルィニでもボヤーリンはスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ支持で固まっていたわけではない。
悪いことに、1207年、ヴラディーミルとロマーンが喧嘩をし、ロマーンが兄を追ってガーリチを併合した。しかもそこにリューリク・ロスティスラーヴィチが介入。ガーリチに侵攻したハンガリー軍にロマーン・イーゴレヴィチは敗北し、その捕虜となった。
こうして孤立したスヴャトスラーフ・イーゴレヴィチに、ポーランド軍が侵攻。ポーランド王レシェク1世白髪王とマゾフシェ公コンラート1世・マゾヴィェツキの兄弟にヴォルィニのボヤーリンは屈し、スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチはその捕虜となった。
ハンガリーの支配に飽いたガーリチのボヤーリンは、1208年、再びイーゴレヴィチ兄弟を招聘。イーゴレヴィチ兄弟は瞬く間にガーリチを平定し、ヴラディーミルがガーリチ(都市)、ロマーンがズヴェニーゴロド、スヴャトスラーフがペレムィシュリを獲得した。
ガーリチのボヤーリンは現在の権力に満足することなく、常に陰謀・叛乱の温床となっていた。イーゴレヴィチ兄弟は同じ轍を踏まぬようにと、ボヤーリンたちを虐殺。当然ボヤーリンたちはこれに反発し、ハンガリーに密通。
1211年、ハンガリー軍と、さらにはヴォルィニ軍・ポーランド軍をも引き連れたダニイール・ロマーノヴィチがガーリチに侵攻。ペレムィシュリ市民はすぐさま降伏し、スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチは捕らえられた。ズヴェニーゴロドもガーリチも陥落し、ヴラディーミル・イーゴレヴィチは逃亡したものの(?)、ロマーン・イーゴレヴィチもハンガリー軍の捕虜となった。
イーゴレヴィチ兄弟に多大の恨みのあるガーリチのボヤーリンたちは、ハンガリー軍にイーゴレヴィチ兄弟の引き渡しを要求。イーゴレヴィチ兄弟はガーリチのボヤーリンたちにより、首を吊るされた。