スタニスラーフ・イヴァーノヴィチ
Станислав Иванович
キエフ公 князь Киевский
生:?
没:?
父:プティーヴリ公イヴァン・イヴァーノヴィチ (プティーヴリ公イヴァン・ロマーノヴィチ)
母:?
結婚:
& オリガ公女 (リャザニ公イヴァン・ヤロスラーヴィチ)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
母親不詳 | ||||||
イヴァン | オーヴルチ |
素性不詳。
ルーシ側の年代記には記録が残っていない。ただ後年のポーランド系の史料に登場するだけである。
それによると、1320年代前半(通常は1321年か1324年とされている)、リトアニア大公ゲディミナスが南ルーシに侵攻し、キエフ南西のイルペニ河畔でキエフ公スタニスラーフ、ペレヤスラーヴリ公オレーグ、ブリャンスク公ロマーン、元ルーツク公レフ・ダニイーロヴィチ(すでにヴォルィニからゲディミナスによって追い出されていたらしい)の連合軍を破った。オレーグとレフ・ダニイーロヴィチは戦死し、スタニスラーフはロマーンとともにブリャンスクへ、次いでリャザニへと逃亡した。ゲディミナスはキエフを、さらにペレヤスラーヴリ、プティーヴリ、ヴィーシュゴロド、ベールゴロドを占領している。
この戦いについては同時代史料には言及されておらず、実際に起こったものかどうか疑問視する向きもあるようだ。とはいえ否定すべき根拠も特にない。
スタニスラーフもこの史料にしか登場しない。そのためその素性も含めて異説がある。ただし1300年前後にキエフ公であった(と考える学者がいる)ヴラディーミル・イヴァーノヴィチの後を継いだ弟だと見なされることが多いようで、そのためヴラディーミル・イヴァーノヴィチとこみでイヴァン・イヴァーノヴィチの息子とされるのが一般的なようだ。
なお、説によっては当然父称はイヴァーノヴィチではない。またスタニスラーフという名にしても、これはポーランド語の名で、ルーシではスタニスラーフ・ヴラディーミロヴィチの例はあるものの一般的ではない。このため、スタニスラーフがヴラディーミル・イヴァーノヴィチの弟でプティーヴリ系の出身だと考える学者の中には、スタニスラーフというのはスヴャトスラーフがポーランド語の文献で誤ったもの、とする者もあるらしい。