イズャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ
Изяслав Владимирович
テレボーヴリ公 князь Теребовльский (1210-11)
ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公 князь Новгород-Северский (-1235)
キエフ大公 великий князь Киевский (1235-36)
生:1186
没:?
父:ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公ヴラディーミル・イーゴレヴィチ (ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ)
母:スヴォボーダ (ポーロヴェツ人のハーン・コンチャク)
結婚:
& アガーフィヤ
子:?
第11世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
ただし異説あり。
おそらく厳密には、ふたりのイジャスラーフがいる、と言うべきだろう。1205年から11年に活動したイジャスラーフと、1231年以降に活動したイジャスラーフと。
このふたりが同一人物かどうかがまず問われるべきだが、とりあえずそれぞれ見ていこう。
1206年、ヴラディーミル・イーゴレヴィチがガーリチを征服。これに同行した中にイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチの名が見える。以下、ガーリチ=ヴォルィニの年代記は «イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ» と記しているらしい。
ガーリチは当時、イーゴレヴィチ兄弟、ダニイール・ロマーノヴィチ、ハンガリー、ポーランド等が激しく覇権を争う混乱状態にあった。その間隙をついて、ガーリチのボヤーリンたちがイーゴレヴィチ兄弟をガーリチに招いたものである。
ガーリチを巡る情勢はなかなか落ち着かなかったが、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチは1210年になってヴラディーミル・イーゴレヴィチからテレボーヴリを与えられた。しかし1211年にはダニイール・ロマーノヴィチ、ハンガリー、ポーランドの連合軍がガーリチに侵攻。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはポーロヴェツ人を率いてロマーン・イーゴレヴィチの救援にズヴェニーゴロドに駈けつけるが、敗退。ヴラディーミル・イーゴレヴィチもハンガリー軍によってガーリチを追われ、その弟たちも戦死。ヴラディーミル・イーゴレヴィチもイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチもその後は消息不明となる。
その経歴からして、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチはヴラディーミル・イーゴレヴィチの子と考えるのが妥当だろう。だとすると、母親はコンチャク・ハーンの娘スヴォボーダで、生まれたのはおそらく父がまだポーロヴェツ人の虜囚だった1186年かその前後であろう。
残念ながらヴラディーミル・イーゴレヴィチについても、1211年以降どうなったか不明。ただし、ガーリチを追われればセーヴェルスカヤ・ゼムリャーに戻る以外にないので、おそらくはノーヴゴロド・セーヴェルスキイかプティーヴリあたりを領有したのだろうと想像される。
学者の中には、何を根拠にしたか、イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチは1223年にカルカ河畔の戦いで戦死したのではないかと考える者もいる。
引き続き、«もうひとりのイジャスラーフ» である。こちらの方は情報量が多い。
1231年、一旦はダニイール・ロマーノヴィチが奪還していたガーリチに、ハンガリー軍が侵攻。この段階でイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが、どこからともなく年代記に登場。こちらのイジャスラーフは基本的に «イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ» と記されているようだ。
1232年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはダニイール・ロマーノヴィチと同盟を結ぶ。しかし、ハンガリーへの遠征途上でイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはダニイール・ロマーノヴィチを裏切り、ガーリチ支配を巡ってダニイール・ロマーノヴィチとの戦いを始める。
1233年、ダニイール・ロマーノヴィチがキエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチと同盟し、チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチと戦いを始めると、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはポーロヴェツ人の支援を得てこれに介入。ダニイール & ヴラディーミル連合と、ミハイール & イジャスラーフ連合との対立が続く。
1235年、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはダニイール & ヴラディーミル連合軍をズヴェニーゴロド近郊で破り、ヴラディーミル・リューリコヴィチを捕虜とした。ダニイール・ロマーノヴィチは敗走したが、ガーリチのボヤーリンが蜂起。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチがキエフを、ミハイール・フセヴォローディチがガーリチを占領した。
イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとミハイール・フセヴォローディチは、さらにダニイール・ロマーノヴィチの本領ヴォルィニにも侵攻するが、その征服には手を焼いた。最終的にミハイール・フセヴォローディチはダニイール・ロマーノヴィチと講和している。
1236年、ダニイール・ロマーノヴィチがヴラディーミル大公ユーリイ・フセヴォローディチと同盟。イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチは、その弟ヤロスラーフ・フセヴォローディチにキエフから追われた。
これ以降、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの動向についてはよくわからない。1240年、モンゴルがガーリチ=ヴォルィニを蹂躙した際に攻略されたカーメネツは、イパーティイ年代記によればイジャスラーフの分領だった。ミハイール・フセヴォローディチと同様、ダニイール・ロマーノヴィチと和解して領土をもらっていたということか。
さらに、モンゴルが去った後、再びガーリチの支配を目論んで画策をしたという話もある。
トヴェーリの年代記ははっきりと、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチをスモレンスク公ムスティスラーフ老公の子と記している。しかしその経歴からしてイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチはガーリチにゆかりが深く思われるが、ムスティスラーフ老公とガーリチとのかかわりはなきに等しい。
学者の中には同じくスモレンスク系のムスティスラーフ幸運公の子と考える者もいる。1231年にスーズダリの年代記は、ムスティスラーフ幸運公の子としてムスティスラーフ、ヤロスラーフ、イジャスラーフを挙げている(個人的には、この情報は疑わしいと思っている)。ムスティスラーフ幸運公は自身長年にわたってガーリチを狙っており、実際にガーリチを支配してもいたので、しかも1231年の直前(1228年)に死んでいるので、イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの父としてはふさわしいと言える。
1210年前後のイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチと1230年代のイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチと、同一人物と見なすべき特段の理由はないかと思う。にもかかわらずカラムジーン以来、ふたりのイジャスラーフは同一人物、ヴラディーミル・イーゴレヴィチの子だとされている。根拠はよくわからない。