イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ
Игорь Святовлавич
ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公 князь Новгород-Северский (1180-98)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1198-1202)
生:1151.04.03
没:1202.12.29−チェルニーゴフ
父:チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ (チェルニーゴフ公オレーグ・スヴャトスラーヴィチ)
母:マリーヤ (ノーヴゴロド市長ペトリーラ)
結婚①:1169
& ?
結婚②:1184
& エヴフロシーニヤ公女 -1202 (ガーリチ公ヤロスラーフ・オスモムィスル)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
---|---|---|---|---|---|---|
先妻と | ||||||
1 | ヴラディーミル | 1170-1212 | セーヴェルスキイ | スヴォボーダ | ポーロヴェツ公コンチャク | |
母親不詳 | ||||||
2 | オレーグ | 1174-1205 | ||||
3 | ロマーン | 1175-1211 | ガーリチ | |||
4 | スヴャトスラーフ | 1176-1211 | プシェムィスル | ヤロスラーヴァ | キエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチ | |
5 | ロスティスラーフ | -1212 |
第9世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。洗礼名ゲオルギー。
『イーゴリ軍記』の主人公。
1164年、父が死去。チェルニーゴフは従兄弟のノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが継ぎ、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公には兄オレーグ・スヴャトスラーヴィチがなった。イーゴリ・スヴャトスラーヴィチは兄オレーグから、ノーヴゴロド=セーヴェルスキイに若干の領土をもらった(クールスクとの説もある)。
1169年、ヴラディーミル大公アンドレイ・ボゴリューブスキイの派遣したキエフ遠征軍に従軍し、ムスティスラーフ・イジャスラーヴィチと戦っている。
1171年にはヴォルスクラ河畔でポーロヴェツ人と戦い、コビャク、コンチャクのふたりのハーンを打ち破った。
1180年、オレーグ・スヴャトスラーヴィチが死去。イーゴリ・スヴャトスラーヴィチはノーヴゴロド=セーヴェルスキイを継ぐとともに、遺児スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチにルィリスクを与えた。
なお、オレーグ・スヴャトスラーヴィチは1177年にチェルニーゴフ公となり、それに伴いイーゴリ・スヴャトスラーヴィチがこの時にノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公になったとする説もある。
1180年、キエフ大公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチとともにダヴィド・ロスティスラーヴィチに対して遠征。この時イーゴリ・スヴャトスラーヴィチは、コビャク、コンチャクの率いるポーロヴェツ人を連れていた。
1183年、ルーシ諸公によりおそらく数度の対ポーロヴェツ人遠征が実施されたと考えられるが、イーゴリ・スヴャトスラーヴィチも少なくとも1度は遠征に出発し、ポーロヴェツ人に対して勝利を収めている。
1185年、スヴャトスラーフ・フセヴォローディチが、トムタラカーニ奪回を目指し、ポーロヴェツ人への遠征を計画。しかしチェルニーゴフ公を継いでいたその弟ヤロスラーフ・フセヴォローディチはこれを忌避。これに対してイーゴリ・スヴャトスラーヴィチは、弟トルブチェフスク公フセーヴォロド猛牛公、甥ルィリスク公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ、息子プティーヴリ公ヴラディーミルを伴い、ドン河へ向け出征。一旦は勝利を収めるが、未明に急襲を受け、大敗を喫する。イーゴリは一族共々捕虜となる。領土は蹂躙された。
その年のうちに、ラーヴルというルーシ人の手助けで脱走に成功。領土を取り戻す。
1198年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチが死去。おそらくこれによりイーゴリ・スヴャトスラーヴィチがオーリゴヴィチ一族の最年長者になったのだろう。チェルニーゴフ公となる。
しかしかれの後任としてノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公となったのが誰かについては、諸説ある。おそらく一般的なのは息子のヴラディーミル・イーゴレヴィチとする説だろうが、当時はイーゴリ・スヴャトスラーヴィチとおそらく同年代だと思われるスヴャトスラーヴィチ兄弟が健在だった。オーリゴヴィチ一族ではこれまで最年長者がチェルニーゴフ公に、次の年長者がノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公になるという慣習が続いてきていたから、それからするとこの時ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公にはスヴャトスラーヴィチ兄弟の長兄(オレーグ・スヴャトスラーヴィチ)がなるべきである。そして実際、おそらく少数派だろうし、根拠は知らないが、そう主張する学者もいる。
つくるだけつくってみたので、以下、スヴャトスラーヴィチ一族(オーリゴヴィチ一族)の最年長者と次の年長者、そして歴代チェルニーゴフ公・ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公の一覧表を示す。
最年長者(キエフ大公除く) | チェルニーゴフ公 | 次の年長者 | セーヴェルスキイ公 | |
---|---|---|---|---|
1097 | ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ | ダヴィド・スヴャトスラーヴィチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ |
1115 | ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ | ― | ||
1123 | ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ | ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ | フセーヴォロド・オーリゴヴィチ? | ― |
1127 | フセーヴォロド・オーリゴヴィチ | ― | ||
1129 | フセーヴォロド・オーリゴヴィチ? | ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ? | ― | |
1139 | ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ? | ヴラディーミル・ダヴィドヴィチ | イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ? | ― |
1141 | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | |||
1151 | イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ? | イジャスラーフ・ダヴィドヴィチ | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ? | |
1157 | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ |
1164 | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ |
1177 | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | A | ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | B |
1180 | ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | ヤロスラーフ・フセヴォローディチ | イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ | イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ |
1198 | イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ | イーゴリ・スヴャトスラーヴィチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | C |
1202 | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | オレーグ・スヴャトスラーヴィチ | フセーヴォロド真紅公 | ? |
1204 | フセーヴォロド真紅公 | フセーヴォロド真紅公 | グレーブ・スヴャトスラーヴィチ | ? |
1210 | グレーブ・スヴャトスラーヴィチ | リューリク・ロスティスラーヴィチ | ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ | ? |
1214 | グレーブ・スヴャトスラーヴィチ | ? | ||
1219 | ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ | ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ | ? | ? |
キエフ大公となってチェルニーゴフ公位を離れた者は、言わば死んだものとして扱う。また、1129年以降のムーロム=リャザニ系、1157年以降のダヴィドヴィチ系は無視。
ダヴィドヴィチ兄弟のひとり聖スヴャトーシャも無視。その兄とされるダヴィドヴィチ兄弟は、実際には年の離れた弟で、おそらくオーリゴヴィチ兄弟と同時期の生まれだろうと想像している。
こうして見れば、ABC以下の空欄に誰が入るべきかは一目瞭然であろう。しかし一般的には、Aにはヤロスラーフ・フセヴォローディチが、Bにはオレーグ・スヴャトスラーヴィチが、そしてCにはヴラディーミル・イーゴレヴィチが入れられている。ABについては当時の力関係などからあるいは逆転があったかもしれないが(何と言ってもヤロスラーフ・フセヴォローディチの実兄スヴャトスラーフ・フセヴォローディチがキエフ大公だったのだから)、Cについては、20も年少のヴラディーミル・イーゴレヴィチがオレーグ・スヴャトスラーヴィチにとって代われるとは到底思えない。そんな無理を通してしまうほど、イーゴリ・スヴャトスラーヴィチに一族内での威光があって、オレーグ・スヴャトスラーヴィチが凡庸だったのだろうか(確かにオレーグ・スヴャトスラーヴィチは凡庸としか思えないが)。
いずれにせよ、チェルニーゴフ公としてのイーゴリ・スヴャトスラーヴィチの事績は伝わっていない。
妻子についても、諸説がある。『イーゴリ軍記』で «ヤロスラーヴナ» と呼ばれているエヴフロシーニヤ公女が妻だったのは確かだが、どうやら1185年の時点で彼女とは結婚してまだ間もなかったようだ。ところが長男ヴラディーミルは1185年の遠征に従軍している。とすると、少なくともかれだけは «ヤロスラーヴナ» の子ではなかったのではないかと思われる。
他方において、イーゴリ・スヴャトスラーヴィチの息子たちは、長男ヴラディーミルも含めて、のちにいずれもガーリチを獲得しようと野心を燃やしている。かれらの母親が、ガーリチ公の娘である «ヤロスラーヴナ» であれば、それも不思議はない。