アンドレイ・ムスティスラーヴィチ
Андрей Мстиславич
ルィリスク公 князь Рыльский
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1246)?
生:?
没:1246
父:ルィリスク公ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチ (ルィリスク公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
フョードル | ルィリスク |
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
カラムジーンは、父親はムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチはムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチでもチェルニーゴフ公だったムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチだとしている。ということはつまり、アンドレイ・ムスティスラーヴィチをアンドレイ・ムスティスラーヴィチ(フセヴォローディチ)と同一視している、ということだろう。
また、ムスティスラーフ・グレーボヴィチの子とする説もある。
つまりは、モンゴル襲来後にアンドレイという公がおり、それが単一の人物なのか複数の人物なのかが諸説ある、ということだ。
チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチの死後、一時的にアンドレイがチェルニーゴフを支配したと考える学者がいる。
プラノ・カルピーニによれば、1245/46年、チェルニーゴフの公アンドレイが、サライで殺された。その後、未亡人と、12歳になる弟とが分領の継承に関してサライに伺候した際に、モンゴルの伝統にならい、未亡人と弟とが結婚させられたという。