リューリク家人名録

スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ

Святослав Игоревич

キエフ大公 великий князь Киевский (945-972)

生:927・942
没:972.03−ドニェプル河畔

父:キエフ公イーゴリ・リューリコヴィチ (ノーヴゴロド公リューリク
母:オリガ -969

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ヤロポルク-980キエフ
2オレーグ-977ドレヴリャーネ族
マルーシャと
3ヴラディーミル-1015ノーヴゴロド

第3世代。イーゴリ・リューリコヴィチの唯一の子(?)。

 皇帝コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスやビザンティン系の史料では、Σφενδοσθλαβος/Sphendosthlabos というスペルが見られる。カタカナ表記すれば «スフェンドストラボス» となろうか。語尾の -ος は男性名を示す接尾辞であるから、オリジナルの名は «Sphendosthlab スフェンドストラブ» である。
 «スフェンド Σφενδο-» は、かつてスラヴ語に存在した鼻母音を反映したもので、*svięto- であろう(「聖なる」という意味)。この鼻母音が消えて現代ロシア語では «スヴャト свято-» となった(なおこの鼻母音はこんにちポーランド語にだけ残っている)。

たとえばモラヴィア王スヴャトプルク Svatopluk はギリシャ語で «スフェンドプロコス Σφενδοπλόκος»、ドイツ語で «ツヴェンティバルト Zwentibald» となっている。同じくスヴャトポルク Святополк をメルゼブルク司教ティートマールはラテン語で «スエンテプルクス Suentepulcus» と表記している。いずれも鼻母音を反映している。

 «ストラブ -σθλαβ-» は、途中に余計な文字が挟まっているものの、ギリシャ文字では b と v は区別されないので、これは «スラーヴァ слава/slava» (ロシア語で「栄光」) のことであろう。
 こうして Σφενδοσθλαβος は Святослав、すなわちスヴャトスラーフのギリシャ文字表記と考えることができる。リューリク、オレーグ、イーゴリをはじめ、アスコリドやスヴェネリド等、古ノルド語の名ばかりが続いてきたヴァリャーギに、初めてスラヴ語の名を持つ人物が登場したことになる。これは、ヴァリャーギがスラヴ化されてきた徴候と見ることができよう。
 しかし Σφενδοσθλαβος には別の解釈もある。Σφενδο- はスラヴ語の svięto- ではなく古ノルド語の svend- ではないか、とする説である。すなわちスヴャトスラーフという名は、古ノルド語とスラヴ語とのハイブリッドだということになる。また、リューリコヴィチの名を研究しているリトヴィナー & ウスペンスキイは、リューリコヴィチに «〜スラーフ» が多いのは、古ノルド語の -leifr と音が似ているからではないかと考えている。とするならば、スヴャトスラーフも svend- + -leifr と解することができないだろうか。おそらく古ノルド語を話したであろうイーゴリが息子に古ノルド語でスヴェンドレイフと名付けたが、やがて古ノルド語を解さないスラヴ人の臣下たちがこれを自分たちにもわかる «スヴャトスラーフ» と理解し、そう発音するようになった、とする想像は突飛だろうか。実際、北欧の史料(古ノルド語で書かれている)ではヤロスラーフ賢公が Jarizleifr となっているほか、Jerzleifr、Burizleifr などの名が挙げられている(前者は Jarizleifr の異綴と考えられるが、後者はイジャスラーフのことと思われる。Burizleifr などという音がどこから来たのか不明。その弟スヴャトスラーフなどは父親と同じ Jarizleifr と表記されており、北欧系史料における固有名詞はその限りにおいてあまり信用がならない)。
 別の観点から考えてみよう。スヴャトスラーフの一族は、父イーゴリ、母オリガのみならず、従兄弟イーゴリ、従兄弟アクン(ヤクン)、弟グレーブと、スヴャトスラーフ以外はすべて古ノルド語の名ばかりである。

第1世代第2世代第3世代第4世代
リューリク/ロリクイーゴリ/イングヴァールスヴャトスラーフヤロポルク
オレーグ/ヘルギ
ヴラディーミル
グレーブ/グズレイフ
男? 女?イーゴリ/イングヴァール
男? 女?アクン/ハーコン

もちろん、ゲルマンからスラヴへの過渡期であるから、と考えれば、古ノルド語ばかりの中にたったひとつスラヴ名があってもおかしくはない。しかし同時に、スヴャトスラーフが本当はスヴェンドレイフであって、弟グズレイフと同様の名前であったとしてもまた、おかしくないだろう。
 このように、スヴャトスラーフという名は、厳密にはスラヴ語源ではない可能性も完全には否定できない。とはいえ、スラヴ語でも理解可能であることも否定できず、その意味ではヴァリャーギにもスラヴ人にも配慮した名だと言えないこともない。しかもこれ以降は、リューリコヴィチの命名において、すでに使われているリューリク、オレーグ、イーゴリを除けば、古ノルド語起源の名はグレーブ、ローグヴォロド、イングヴァーリだけとなり、それ以外はスラヴ語起源の名だけとなる(のちにキリスト教起源の名に替わられる)。少なくともその限りにおいて、スヴャトスラーフという名は、ヴァリャーギが、なかんずくリューリコヴィチがスラヴ化されてきた徴候ととらえることができる。

 『原初年代記』によればスヴャトスラーフは964年(その直前)に成人した。父が945年に死んでいるため、一般的にスヴャトスラーフの生年は940年代前半とされている。特に、イパーティイ年代記を元に、942年とされることが多い。
 しかし『原初年代記』の6450年の記事が、ラヴレンティイ年代記とイパーティイ年代記とで微妙に異なっている。

(ラヴレンティイ年代記)6450年(941-942)。シメオンがクロアティアに遠征した。クロアティアが勝利した。死んで、ブルガールの公として息子ペトルを残した。
(イパーティイ年代記)6450年(941-942)。シメオンがクロアティアに遠征した。クロアティアが勝利した。死んで、息子ペトルを残し、公として君臨した。この年、イーゴリからスヴャトスラーフが生まれた。

 ブルガリア軍がボスニアでクロアティア軍に大敗を喫したのは927年。この日、首都プレスラフの宮殿ではブルガリア皇帝シメオンが死んだ。そしてイパーティイ年代記は、この年スヴャトスラーフが生まれたと言っているのだが、「この年」とはどういう意味だろうか。6450年のことか、シメオンが死んだ年ということか。前者であれば942年だが、後者であれば927年である。
 以下、スヴャトスラーフの登場する、964年以前の『原初年代記』の記事すべてである(イパーティイ年代記の上掲誕生記事は除く)。

6453年(944-945)。(ビザンティンとの交渉に赴いた使節のひとりヴエファストがスヴャトスラーフから派遣されたことが記されている)。
 6453年(944-945)。……(ドレヴリャーネによるイーゴリ殺害)……。オリガは自分の息子、子供のスヴャトスラーフと、養育役アスムード、ミスティシャ(イパーティイ年代記ではムスティシャ)の父である軍司令官スヴェネリドとともにキエフにいた。ドレヴリャーネは言った「われらはルーシの公を殺した。その妻オリガをわれらの公マールの妻としよう。そしてスヴャトスラーフは、われらの好きにしよう」。……(ドレヴリャーネによるオリガへの求婚と、オリガの復讐)……。
 6454年(945-946)。オリガは息子スヴャトスラーフとともに多数の勇敢な戦士を集め、ドレヴリャーネの地へと赴いた。ドレヴリャーネもかれらに対抗して出陣した。双方の軍が激突すると、スヴャトスラーフがドレヴリャーネに矢を投じ、矢は馬の耳の間を通って飛び、馬の肢を打った。スヴャトスラーフはまだ子供であったのだが。スヴェネリドとアスムードは言った「公がすでに始められた。公の後に続け、従士たちよ」。こうしてドレヴリャーネに勝利した。ドレヴリャーネは逃亡し、都市に立て篭もった。オリガは息子とともに都市イースコロステニに急行した。と言うのもかれらが夫を殺したからである。息子とともに都市のそばに陣取ると、ドレヴリャーネは都市に閉じこもり、頑なに都市を防御した。公を殺した以上、希望は何もないことを知っていたからだ。こうしてオリガは夏中陣取っていたが、都市を奪うことができなかった……。……。そして(オリガは)かれら(ドレヴリャーネ)に多大な貢納を課した。3分の2はキエフに、3分の1はヴィーシュゴロドのオリガに。と言うのもヴィーシュゴロドはオリガの都市であったから。オリガは息子と従士団とともにドレヴリャーネの地をまわり、貢納と租税を課した。また滞在の場所と狩猟の場所を確保した。こうして己が都市キエフに息子スヴャトスラーフとともに戻り、ここで1年を過ごした。
 6463年(954-955)。……(オリガがコンスタンティノープルを訪問し、洗礼を受ける)……。オリガは息子スヴャトスラーフとともに住み、かれに洗礼を受けるよう諭したが、かれはこれを聞こうともしなかった。とはいえ洗礼を受けようという者がいても、これを禁じることはせず、ただ笑いものにするだけだった。「不信心者にとってはキリストの信仰は愚行であったからだ」。……(その他キリスト教の格言)……。こうしてオリガはしばしば語った「息子よ、わたしは神を知り喜んでいる。そなたも知るなら、同じく喜ぶであろう」。かれはこれに耳を傾けず言ったものだ「われひとりが異なる信仰を受けることなどどうしてできようか。わが従士団に嘲笑されてしまうわ」。彼女はかれに言った「そなたが洗礼を受ければ、みなも従うだろう」。かれは母の言うことを聞かず、異教の慣習に従って生き続けた。「父や母の言うことを聞かぬ者は死を受け取ることになる」と言われるごとく、母親の言うことを聞かぬ者は不幸に陥るとも知らずに。のみならず、スヴャトスラーフは母親に怒っていた。ソロモンは言っている「悪を教える者は自らに災厄を招く。冒涜を摘発する者は辱めを受ける。冒涜者にとって摘発行為は腫瘍のようなものだからである。悪を摘発するな、憎まれぬために」。しかしオリガは息子スヴャトスラーフを愛しており、こう語った「神の意思よ、あれ。もし神が我が一族とルーシの地を慈しまれるなら、かれらの心に、わたしに賜りし神に向かう欲求を注ぎ込みたまえ」。こう言いながら、息子とすべての人々のために夜も昼も祈りを捧げ、息子を成年まで育てた。
 6472年(963-964)。スヴャトスラーフが成長して成人すると、多くの勇敢な戦士たちを集めだした。豹のように素早く、多くの戦をおこなった。……。

 945年にドレヴリャーネが「スヴャトスラーフを好きにしよう」と言っているということは、当時スヴャトスラーフが好き勝手にされてしまう年齢だったことを示唆している。
 946年にスヴャトスラーフが戦の先頭に立って矢を放っているが、これは儀礼的なものと考えればかれがまだ幼児であった可能性と必ずしも矛盾するとは言えない。事実、その後もスヴャトスラーフが実際に戦闘に加わったとの記述は一切ないし、それどころかその行動はすべて母后オリガに随従するだけである。スヴャトスラーフが自身の意思で何かをおこなったとの記述は存在しない。
 955年の話は、スヴャトスラーフがまだ幼年であればこそ、「禁じることはせず、ただ笑いものにするだけだった」のかもしれない。キリスト教への改宗を拒んだ理由が「従士団に笑われるから」というのも、少年ならばこそ、とも考えられる。
 これにさらに、次の点をつけ加えておこう。
 第一に、オリガの項で見たように、オリガのコンスタンティノープル訪問に際するスヴャトスラーフの家臣の扱いの低さがある。これに対してオリガの «甥» がかなりの重要人物として扱われている。素朴な印象としては、オリガとスヴャトスラーフの関係は、君主とその母后というよりは君主とその息子に思える。オリガのコンスタンティノープル訪問が957年のことだったとして、この時点ではまだスヴャトスラーフは成人していなかったのではないだろうか。
 第二に、スヴャトスラーフの息子たちの生年である。多少なりとも手がかりがあるのはヴラディーミル偉大公ぐらいなものだが、その手がかりが相互に矛盾しているように思われる。すなわち、970年の時点でまだ幼年であったかに思われる記述もあれば、980年頃にはすでに中年に達していたかのような描写もある。しかし、詳細についてはヴラディーミル偉大公の項を参照してもらうとして、とりあえずヴラディーミル偉大公を含む息子たちの生年を960年前後と考えるのが自然なのではないかと考える。いずれにせよ、息子たちの生年からすると、スヴャトスラーフ生誕927年説の方が余裕があるものの、942年説もあり得ないではないとは言っておいていいだろう。
 このように、スヴャトスラーフの生年については927年説、942年説、さらに言えばその他の説のいずれとも確定しがたい。

 スヴャトスラーフの年齢についてこだわるのは、それによって母后オリガの役割の持つ意味が大きく変わってくるからである。
 もし945年の時点でまだスヴャトスラーフが幼年であったならば、その後オリガが主導権を握っているのは、言わばかれの «摂政» としてであろう。964年からスヴャトスラーフ独自の活動が伝えられているのも、『原初年代記』の言うように、この頃スヴャトスラーフが成年に達したからであろう。
 しかしもしスヴャトスラーフの生年が927年であったならば、945年の時点ではすでに18歳である。母后が «摂政» になる必要などない。その場合、なぜオリガが対ドレヴリャーネ戦の主導権を握り、一方でスヴャトスラーフは964年まで何ら活動をしていなかったのか、という疑問が生じる。
 ただしオリガの役割については、オリガの項でも少し触れたが、イーゴリと諸公との間に対立があり(おそらくは諸公のイーゴリに対する不満)、またイーゴリオリガとの間にも何らかの問題があり(あるいは夫婦間の問題か)、その結果オリガと諸公とが手を結び、このためイーゴリの死後オリガは «摂政» となったのではなく、諸公により権力者として擁立された、ということもあり得る。すなわち、スヴャトスラーフではなくオリガイーゴリの跡を継いだ、という可能性である。言わば、18世紀にピョートル3世が廃位され、息子パーヴェルではなく皇后エカテリーナ2世が擁立されたのと同じことが、その800年前に起こっていたのかもしれない。
 年代記作家は母子の対立など描きたくなかったのでスヴャトスラーフを幼年にしてしまったが、実際にはドレヴリャーネに対する復讐戦ではスヴャトスラーフが失敗し、代わってオリガが策略で勝利に導いたのかもしれない。そうであればなおさら、オリガが、スヴャトスラーフの代理としてではなく、自身の権利として権力者に擁立された可能性が高くなろう。
 950年頃に書かれた皇帝コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスの『帝国統治論』には、次のような一節がある。

内ロシアからコンスタンティノープルへとやってくる舟は、あるいはネモガルダスから現れる。ここにはロシアの主インゴルの子スフェンドストラボスがいる。またはミリニスカ砦から、テリウツァから、ツェルニゴガから、またはブセグラデから現れる。こうしてかれらすべてがドニェプルを通り、サムバタスと呼ばれるキオアバ砦に集結する。

スヴャトスラーフは、キエフではなくノーヴゴロド(?)にいたとされている。この記述が当時の状況を正確に反映しているとするならば、スヴャトスラーフはキエフからも追われ、ノーヴゴロドを統治していた、ということになろうか。エカテリーナ2世が息子パーヴェルを権力の場から追いやったように、スヴャトスラーフもオリガによって権力から隔離されていたということなのかもしれない。実際、そう考える学者も少なくない。
 しかしよく考えると、ノーヴゴロドはキエフと並ぶキエフ・ルーシの最重要都市である。そこを委ねられていたということは、権力から隔離されていたどころか、権力の一角を占めていたということではないか。スヴャトスラーフが当時まだ幼年であったならば最高権力を委ねることができないのは当然、すでに20歳前後になっていたとしても、まだ未経験のスヴャトスラーフに、まずは地方統治から経験を積ませようという考えだったのかもしれない。これはオリガが «摂政» であったとしても、真の権力者であったとしても、どちらでも言えることである。
 これもオリガの項で触れたが、もしイーゴリオリガが政策的に対立していたとするならば、イーゴリが反ビザンティン政策を、オリガが親ビザンティン政策を採っていたということではないだろうか。ところがそのオリガが、959年にオットー大帝に司教派遣を要請している。これは明らかに反ビザンティン的な政策である。おそらくビザンティンとフランク(ローマ)との等距離外交を狙ったのだろうが、オリガを擁立した諸公からすれば政策の転換に映っただろう。それかあらぬか、派遣されてきたアダルベルトは962年にドイツに逃げ帰っている。つまりオリガの新路線は失敗したのである。964年からスヴャトスラーフの活動が始まるのは、まさにこの失政によりオリガの権力が失われたためではないだろうか。

 964年以後のスヴャトスラーフの活動を、『原初年代記』に基づいて簡単に見ておこう。

 まずヴャーティチについてだが、964年にはオカー・ヴォルガに向かったところヴャーティチに接触した。「誰に貢納しているのか?」と問うたところ、「ハザールに」との答えが返ってきた、というだけの話。翌965年にハザールを攻略し、その結果として966年に再びヴャーティチに侵攻したのか、ヴャーティチに勝利し、貢納を課した。ところが、981年にヴラディーミル偉大公がヴャーティチに遠征して貢納を課したとの記述が『原初年代記』にある。おそらくヴャーティチは、その領土がキエフ・ルーシの辺縁にあることから、これに吸収されることに頑強に抵抗を続けたのだろう。12世紀にいたるまでそれなりの独自性を維持したようだが、逆に言えばスヴャトスラーフの時代以降、徐々にキエフ・ルーシの権力がヴャーティチにも浸透していったと言うこともできよう。
 ドニェプル下流域から南ブグ下流域にかけて住んでいたウーリチは、『原初年代記』では歴史時代以前に言及されただけだし、ノーヴゴロド第一年代記では922年にスヴェネリドにより征服されたとされている。もっとも、その居住地は9世紀後半にはハンガリー部族連合、その後もペチェネーギに蹂躙されており、ウーリチは北西に逃れ、ブジャーネとかヴォルィニャーネと呼ばれる人々に、あるいは吸収されたか、あるいは名を変えたかしたものと考えられる。
 ドニェストルとプルートにはさまれた地域、あるいはさらにドナウ下流域にかけて住んでいたティーヴェルツィは、944年のイーゴリの遠征に従軍したと言及された後、『原初年代記』から姿を消す。スヴャトスラーフのブルガリア遠征は、まさにティーヴェルツィの居住地を縦断しておこなわれたはずだが、『原初年代記』が一切かれらについて言及していないということは、あるいはかれらはすでにキエフ・ルーシに組み込まれていたのか、あるいはその故地を棄てて他に移住していたのか。ティーヴェルツィの地もペチェネーギに圧迫されており、おそらくウーリチともどもヴォルィニに逃亡したものと考えられる。
 そのヴォルィニにいたとされるドゥレーブィは、『原初年代記』では907年のオレーグの遠征に従軍したのを最後に姿を消す。おそらくブジャーネないしヴォルィニャーネへと姿を変えたものと思われる。
 その隣人であった白クロアティア人には、992年にヴラディーミル偉大公が遠征している。この遠征の結果がどうなったのか『原初年代記』は述べていないが、おそらくこれ以降いずれかの時期に(あるいはこの時までに)、白クロアティア人もキエフ・ルーシに吸収されたのだろう。かれらもまたのちにブジャーネないしヴォルィニャーネに吸収されたのだろう。
 ブジャーネとヴォルィニャーネは、『原初年代記』では原初的な東スラヴ人として名を挙げられているが、むしろ上述の諸部族の連合体として後世に成立したものではないだろうか。その居住地はほとんど区別できず、事実上両者は同じものと考えてよかろう(『原初年代記』には、ブジャーネの後代の名がヴォルィニャーネであった、と読める箇所がある)。981年、ヴラディーミル偉大公がペレムィシュリやチェルヴェニを征服したが、これらはブジャーネ/ヴォルィニャーネの都市である。これをもってブジャーネ/ヴォルィニャーネもキエフ・ルーシに組み込まれたと考えてよかろう。その後ヴラディーミル偉大公は息子をヴラディーミル=ヴォルィンスキイに公として派遣している。
 このように、スヴャトスラーフの時代にも東スラヴ人の統合作業は順調に進展したものと考えられる。しかし同時に、まさにこの流れに逆行するような状況がスヴャトスラーフの治下に生じていたと思われるのだが、それについては後述する。

 ルーシによるハザール襲撃については、実は、ルーシの年代記以外で言及しているのはイブン・ハウカルだけである。かれはアル=イスタフリに、951年に完成したばかりの地理誌の校正を依頼され、977年頃に完成させている。つまり、ルーシによるハザール襲撃のまさに同時代人である。残念ながらルーシによるハザール襲撃についてまとまった記述を残してはいないが、以下のような断片からおおよそは再構成できるだろう。

スラヴ人の地は広大で、幅はおよそ2月の距離である。ブルガールは大きくはない都市で、多数の地区があるわけではないが、上述した国々のための港があることで知られている。これを破壊したのがルーシで、かれらはまたハザラン、サマンダル、イティルをも358年(968-969)に襲撃し、その直後にビザンティンとアンダルシアに向かい、2グループに分かれた。

ブルガールとは、ヴォルガ・ブルガールの首都。922年、イスラームの使節がここを訪問。随行員のひとりイブン・ファドラーンが残した記録は、ルーシと直接会って話した結果を書き残した最古の記録である(ブルガールにはルーシが交易に訪れていた)。シルクロードの北方ルートにおける交易拠点として栄え、モンゴル支配下でも繁栄した。ティムール、ヴァシーリイ2世による破壊を経て、1552年にロシアに併合されて以後は廃墟と化した。
 ハザランは、一般的に、イティルの東半分と考えられている。商業地区であったとかムスリムが多かったとかされるが、こんにちに伝わる記録が過少なので詳細は不明。
 サマンダルはダゲスターンにあった都市。初期にはハザールの首都であったが、8世紀初頭にイティルに遷都された後も商業都市・交易都市として繁栄。
 イティル、ないしアティルとはテュルク語でヴォルガ川のこと。のち、ヴォルガ河口部に建てられたハザールの首都もイティルと呼ばれた(アラブ語ではハムリージュ)。東岸部(西岸部?)はハザランと呼ばれることも。交易都市として栄えた。裁判所がキリスト教徒用に2、ユダヤ教徒用に2、ムスリム用に2、異教徒用に1存在した。
 アンダルシアとは、アラブ語の «ヴァンダル人の地»。イベリア半島のこと。のち、イベリア半島のうちイスラーム勢力の支配する地を意味するようになった。イスラーム系史料はしばしば、ルーシがアンダルシアに現れたと伝えている。ただしイスラーム系史料はルーシとノルマン人を同一視している。

(ルーシから蜂蜜と蜜蝋、毛皮がもたらされる)。ヤジュジュとマジュジュの方からかれら(ルーシ)の地へと川沿いに下り、その後はブルガールへと上る。これは358年(968-969)までやむことはなかった、と言うのも、ルーシがブルガールとハザランを破壊したからである。

ヤジュジュとマジュジュとは、イスラームの終末論に現れる架空の部族。ここでは、ヴァリャーギのことを指しているように読める。

ハザーリヤには地域があり、そこにはサマンダルという都市があって、それとデルベントとの間にある。そこには無数の庭園があり、4万近くのブドウ園があるという。わたしは58年(968-969)にジュルジャンで、最近そこにいた者にそこについて尋ねたところ、言うには、そこにはブドウ園や庭園があり、それは貧者への施しであって、そこで残るものと言えば茎の上の葉1枚である。かれらにルーシが襲いかかり、都市にはブドウ園も干しブドウも残らなかった。この都市にはムスリムも、他の宗教の信奉者も、偶像崇拝者も住んでおり、かれらは去ったが、その地の価値や収益のゆえに、3年を経ずしてかつてのようになった。サマンダルにはモスク、教会、シナゴーグがあったが、かれらはイティル河畔にいたすべてに襲いかかり、ハザール、ブルガール、ブルタスを捕らえた。イティルの住人はデルベントの島に避難を求め、防御を固めた。また一部はシヤフ=クフ島に逃れ、恐怖のうちに生きている。

デルベントはダゲスターンに古来栄えた城塞都市。交易・戦略の拠点として非常に重要であった。世界遺産。
 ジュルジャンとはこんにちのゴルガーン(ゴレスターン州の州都)。カスピ海の南東部にある沿岸都市。すなわち、サマンダルからカスピ海を横断して避難してきたハザール人がいたということだろう。
 ブルタスは南ロシアにいた、系統不詳の民族。大雑把にハザールとヴォルガ・ブルガールの中間に位置しており、ハザールに従属していた。
 シヤフ=クフ島はこんにちのマンギシュラク半島。カスピ海東岸にある小さな半島で、現カザフスターン領。

 以上、イブン・ハウカルの伝えるルーシの遠征は968-969にあり、ブルガール、ハザラン、サマンダル、イティルが破壊された。すなわち、遠征はヴォルガ中流域から下流域、さらにカスピ海沿岸にかけておこなわれたことになる。他方、『原初年代記』の伝えるスヴャトスラーフの遠征は964-965、挙げられている地名はサルケル、ヤースィ、カソーギである(後2者は地名ではないが)。すなわち、遠征はドン下流域から北カフカーズにかけておこなわれたことになる。時も場所も異なるこのふたつの出来事は、果たして同じ出来事なのであろうか。

サルケルはハザール語で(正確にはシャルキル)、英語で言えばホワイトハウス、スペイン語で言えばカサブランカを意味する。ルーシ系史料では «ベーラヤ・ヴェージャ» とも呼ばれる。830年代、ビザンティンの協力を得てドン河畔(東岸)に建てられたハザールの要塞だが、その仮想敵についてははっきりしない。ヴォルガ・ブルガールもハンガリー部族連合もハザールに従属していたし、ルーシははるか遠くに位置していた。その後は、ドンとヴォルガとが最接近している地点に建てられた利点を活かした商工業都市として発展。ちなみに、ルーシ系史料はハザラン、サマンダル、イティルに言及したことがないが、他方でイスラーム系史料もサルケルに言及したことがない。ある意味で、キエフ・ルーシが狙うハザールの拠点としてはイティルやハザランよりも相応しいと言える。
 ヤースィとは大雑把にアラン人のこと。アラン人とはスキタイやサルマートと同じイラン系民族である。フン人に圧迫されて北カフカーズに移住し、ハザールにも従属していた。モンゴルの襲来でカフカーズ山脈に逃れたアラン人の後裔がオセート人だと言われる。
 カソーギとは、10世紀からモンゴル襲来までの時期に史料に登場する民族で、黒海沿岸の北カフカーズに居住した。おおよそ現在のアドィゲ系と同一視されている。

 ルーシの遠征によりハザールは滅亡した、と一般的に言われることが多い。『原初年代記』には次のような一節がある。

6494年(985-986)。……(ムスリムのブルガール、カトリックのドイツ人がヴラディーミル偉大公に宣教を試みる)……。これを聞いて、ハザールのユダヤ教徒がやって来て言った「われらは聞いた。ブルガールとキリスト教徒がやって来て、汝に自身の信仰を教えたと。キリスト教徒が信じるのは、われらが磔にした者である。われらが信じるはアブラハムとイサアクとヤコブの唯一神である」。ヴラディーミルは聞いた「汝らの法はいかなるものか」。かれらは答えた「割礼は受けるが、豚肉と兎肉は食べる。土曜日は遵守する」。かれは聞いた「汝らの地はどこにあるか」。かれらは答えた「イェルサレムに」。かれは聞いた「確かにそこにあるか」。答えた「神はわれらの父祖に怒り、われらの罪のために様々な国にわれらを四散させ、われらの地をキリスト教徒に与えた」。これに対してヴラディーミルは言った「おのれが神に否定され追い払われたというに、よくも他人に教えられたものだな。もし神が汝らと汝らの法を慈しんだなら、汝らも他人の地に四散させられることもなかったろう。あるいはわれらにも同じことを望んでおるのか」。続いてギリシャ人がヴラディーミルに哲学者を派遣してきた……。

一見、ハザール帝国が滅亡していればこそ成立する会話であると思われる。しかし答えているハザール人は、ユダヤ人のつもりで答えているのだとも考えられる。しかもこの会話、どうにもつくりもの臭く感じられるのはわたしだけだろうか。「酒が呑めなきゃルーシは生きていられん」と言ってムスリムを追い返したり、「親父らが受け入れなかったんだから」と理由にならない理由でカトリックを追い返したりしたかと思えば、ユダヤ教徒を追い返した理由は非常に真面目であり、しかもこの問答が続くギリシャ人哲学者との会話に密接に結びついている。一連の流れをすべて読むと、つくりもの臭さがはっきりすると思うのだが。つまりは、この問答だけをもってハザール帝国が滅亡していた証拠にはならないと思われる。
 そもそも、ルーシはハザール帝国を領土的に征服したわけではない。ハザール帝国のうち、ヴォルガ・ドン流域の勢力圏はおおよそペチェネーギに、その後はポーロフツィに支配されたと思われるが、北カフカーズの領土は残ったものと想像される。マンドゲリス文書は4746年(985-986)に書かれたものだが、タマン(のちのトムタラカーニ公領)にいたハザール王ダヴィド(ダヴィデ)のもとにルーシから使節が訪れ宗教問題について質問をしたという。ただしこのマンドゲリス文書は、しばしば文書を偽造した疑いをかけられているアヴラアーム・フィルコーヴィチの手を経ているので、その信憑性に疑問を抱く向きが多い。しかし、マンドゲリス文書がでっち上げだとしても、1023年にはムスティスラーフ勇敢公がハザールやカソーギを率いてヤロスラーフ賢公と戦っているし、1079年にはオレーグ・スヴャトスラーヴィチがハザールによりトムタラカーニから追われている。このように、北カフカーズの東部におけるハザールの活動は11世紀末にいたるまで知られている。大帝国そのものは崩壊したとしても、政治勢力としてはその後もしばらく余命を保ったのはこれらの事実からも明らかである。
 ちなみにヴォルガ・ブルガールは、モンゴルの襲来まで存続した。ヤースィやカソーギなど北カフカーズの諸民族も、その後特にキエフ・ルーシに組み込まれたわけではない。領土的な観点からすると、«ハザール遠征» の収穫はトムタラカーニ公領の獲得だけであったと言えるだろう(この時に獲得したものとして、の話だが)。

 『原初年代記』は明言しているわけではないが、964年にヴャーティチが「ハザールに貢納している」とスヴャトスラーフに答え、965年にそのハザールをスヴャトスラーフが攻略し、966年にヴャーティチがスヴャトスラーフに敗北して貢納した、という一連の流れは、つまりスヴャトスラーフがハザールを破ったからヴャーティチはスヴャトスラーフに貢納した、ということを示唆しているのだろうか。
 このような些細な点を問題とする由縁は、ハザールの勢力圏についての問題があるからである。もしこのような理解が正しいとすれば、少なくとも『原初年代記』作者は964年の時点までヴャーティチはハザールの勢力圏にあったと認識していた、ということになる。しかし80年前、オレーグが、同じくハザールに貢納していたポリャーネ、セヴェリャーネ、ラディーミチを併合した時には、ハザールとの問題は持ち上がっていない。

 スヴャトスラーフの生涯のハイライトは、ある意味でブルガリア遠征と対ビザンティン戦争であろう。ところがこれに関する記述は、ルーシ系史料やビザンティン系史料でおおまかに一致しているものの、細部では微妙に異なっている。基本的な史料としては、同時代の輔祭レオンの『歴史』、100年後のイオアンネス・スキュリツェスの『歴史の概要』、そして150年後の『原初年代記』が挙げられる。

輔祭レオン(レオン・オ・ディアコノス)は、950年頃に生まれ、コンスタンティノープル宮廷に輔祭として仕えた。990年頃に『歴史』を書いているが、その内容の多くはかれ自身が目で見たかかかわったことであり、第一級の史料となっている。
 イオアンネス・スキュリツェスは1040年頃に生まれたと考えられるが、その生涯は不明。著書『歴史の概要』がいつ書かれたかもよくわからないが、1057年までを扱っている。
 ちなみに、『原初年代記』は種々の先行史料の寄せ集めだと考えられている。ゆえにその中には輔祭レオンやスキュリツェスよりも早く書かれたものもあったかもしれないし、同時代史料もあったろう。それらをまとめたのがネーストル(1056?-1114?)である。ただしスヴャトスラーフのブルガリア遠征・対ビザンティン戦争については、やはり輔祭レオンやスキュリツェスに比して信憑性に疑問が大きい。
 これ以外の史料については、ここでは割愛。

 スヴャトスラーフの第一次ブルガリア遠征は967年のことである。
 この時スヴャトスラーフはドナウ河畔の80にのぼる都市を攻略し、ブルガリアを屈服させたようだ。ただしスキュリツェスは、スヴャトスラーフがそのまま帰国したとしているが、『原初年代記』はペレヤスラーヴェツを首都としてブルガリアにとどまったとしている。その結果、スキュリツェスによれば遠征はわずか数ヶ月間の出来事でしかない。一方『原初年代記』は、スヴャトスラーフの帰国を翌968年のこととしている。

 遠征の理由をビザンティン系史料から再構成すると、次のようになろう。927年以来、ビザンティンはブルガリアに «年貢» を納め、これにより両国間には平和が保たれていた。しかし10世紀後半に入り、ハンガリーの圧迫を逸らすため、ブルガリアはこれと同盟し、そのビザンティン領への侵略を容認した。これに不満を覚えた皇帝ニケフォロス・フォカスは、アッバース朝との戦いで優勢に転じたこともあり、ブルガリアとの敵対政策に転じた。しかし東方戦線を維持する必要もあったことから、ルーシを利用することを思いつく。こうしてケルソネソス総督の息子であったカロキュロスをスヴャトスラーフのもとに派遣し、ブルガリア攻略を依頼したのだと言う。
 他方で『原初年代記』は、ブルガリア遠征の理由については口をつぐんでいる。ルーシ側には遠征の理由についての伝承が欠けていたのだろう。
 ここでカロキュロスがケルソネソス総督の息子とされている点は注目に値する。イブン・ハウカルの伝えるハザール破壊がスヴャトスラーフによるものであるにせよないにせよ、スヴャトスラーフがドン河畔のサルケルや、北カフカーズ(おそらくは黒海側?)のヤースィやカソーギに遠征したのは確かであろう。すなわちその行動は、ビザンティン領ケルソネソスの脅威となっていたに違いない。とすればビザンティン側の思惑としては、単に蛮族に蛮族を当てた、というだけにとどまらず、スヴャトスラーフの目を黒海沿岸から逸らす目的もあったのかもしれない。

ニケフォロス・フォカス(912?-969)はビザンティン皇帝(963-969)。クレタ島とキリキアを征服した軍司令官として台頭し、幼君バシレイオス2世 & コンスタンティノス8世に代わり皇帝に。皇帝となってからもキプロス島を征服し、帝国軍はメソポタミアにまで進出した。969年、クーデタで殺され、甥イオアンネス・ツィミスケスが皇帝となった。
 ケルソネソスは、クリミア半島にあった古代ギリシャの殖民都市。

 『原初年代記』によれば、スヴャトスラーフはビザンティンからも «貢納» を巻き上げている。ところがスキュリツェスはスヴャトスラーフとビザンティンとの交渉を伝えていないし(カロキュロスの件を別として)、そもそも輔祭レオンなどはこの第一次遠征をなかったことにしている。おそらく輔祭レオンはスヴャトスラーフがブルガリアに侵攻したことを単純に知らなかったのだろうが、このことはつまり、当時のビザンティン宮廷においてこの事実が何ら重要性を持っていなかったことを示唆しているように思われる。
 ビザンティンにとって、スヴャトスラーフのブルガリア遠征が持つ意味はただひとつ、それによってブルガリアがビザンティンに対して下手に出るか否かにあった。実際、968年にブルガリアの使節がコンスタンティノープルを訪問し、これについては当時たまたま滞在中だったクレモーナ司教リウトプランドも記している。この限りにおいてニケフォロス・フォカスの政策は成功し、そしてその後の第二次遠征がなかったならば、ビザンティンの歴史にはこの第一次遠征は記されることすらなかったかもしれない。事実輔祭レオンは無視しているし、スキュリツェスも第二次遠征の前史的な扱いで軽く触れているにすぎない。
 このことはまた、第一次ブルガリア遠征の実態についても示唆を与えている。すでに述べたように、『原初年代記』は、スヴャトスラーフはペレヤスラーヴェツを首都として1年にわたってブルガリアに居座ったとしている。このペレヤスラーヴェツがどこかが問題だが、音の相似から当時のブルガリアの首都プレスラフや、ドナウ下流域のマールィ・プレスラフなる集落だとする説があるらしい。しかし、前者はあり得ないのではないだろうか。首都を1年間にわたって奪われていたとすれば、ブルガリアは壊滅的な打撃を受けたということであろう。そのような事態になれば、ビザンティンが黙っているはずがない。とするとペレヤスラーヴェツは後者だ思われるが、その場合は『原初年代記』の記す «戦果» は過大だと言うほかはない。なぜなら同じくドナウ下流域には大都市シリストラが存在したからである。事実、971年の時点ではスヴャトスラーフはシリストラを本拠としている。そのシリストラではなく無名の集落を本拠地にしたとすれば、スヴャトスラーフの征服地も大したことはなかったと言わねばならないだろう。もちろん別の解釈も可能で、それはつまり、この時スヴャトスラーフはシリストラを本拠地にしたのだが、『原初年代記』が誤ってペレヤスラーヴェツと記した、というものである。

 スヴャトスラーフはなぜ帰国したのか。スキュリツェスからすれば、ビザンティン側の要請は果たしたということでそのまま帰国したかのようだが、『原初年代記』は明確にペチェネーギに攻略されたキエフに呼び戻されたためだとしている。しかし『原初年代記』の記述には問題が多い。
 第一に、タイミングの問題がある。『原初年代記』は当然ながらこれを968年のこととしているが、スキュリツェスによればスヴャトスラーフの帰国は967年のことであるから、ペチェネーギの襲来もまた967年のこととなろう。さらに、古来、ブルガリア皇帝ペタル1世がペチェネーギを使嗾したとする説がある。実際スヴャトスラーフはブルガリアを去ったのだから、この説は結果論としては蓋然性が高いと言えるが、確証はない。
 第二に、『原初年代記』によれば、ペチェネーギを撃退してキエフを解放したのはスヴャトスラーフではなく、ドニェプルの «向こう側» から来た司令官プレーティチである。キエフから見てドニェプルの «向こう側» とは左岸、すなわち東側である。そこにあるのはステップで、せいぜい北東にチェルニーゴフがあるぐらいである。ところがプレーティチは、「自分はかれ(スヴャトスラーフ)の家臣であり、前衛部隊を率いているが、後から公自身の軍が向かっている」と言っている。どう考えても地の文とセリフと、地理的関係が矛盾している。スヴャトスラーフの前衛部隊を率いているのであれば、ドニェプルの «こちら側» から来るはずである。
 だいたい、キエフ市民がスヴャトスラーフに使者を派遣したのは、プレーティチによりキエフが解放された後のことである。しかもその使者の口上が、

「汝、公よ、よその地を得ようとしてそのことを気にかけ、己が地を見棄てたが、おかげでペチェネーギが危うくわれら、汝が母親、汝が子らを捕らえるところであった。汝には己が父の地が、老いたる母親が、己が子らが惜しくはないのか」

である。わたしには、これはキエフ市民の脅迫に思える。すなわち、「ブルガリアなど棄ててキエフに戻れ。さもないとキエフがお前を見棄てるぞ」と言っているのではないだろうか。
 ブルガリアからキエフまでどんなに馬や船を飛ばしても2、3日で行けるものではあるまい。少なくとも行程の半分は他人の地、おそらくはハンガリー人や、敵であるブルガリア人やペチェネーギの跋扈する地なのだからなおさらである。タティーシチェフなどは、軍はブルガリアに残したまま、小数の従士団を連れただけでスヴャトスラーフが帰国したかのように述べているが、それはまず考えられないのではないだろうか。つまりこの時、スヴャトスラーフ率いるルーシは、一旦は完全にブルガリアから撤退したのだろうと思われる。そしてそれは、ペチェネーギがキエフを襲ったからではなく、既定の行動だったのではないだろうか。

 キエフに戻ったスヴャトスラーフは、オリガに対して「ブルガリアに戻りたい」と駄々をこねるが、「せめて自分の最期を看取れ」と言われて、実際その3日後にオリガが死んだので、その葬儀などに忙殺されてブルガリアに戻ることができなかった。
 オリガの死は969年のことだが、『原初年代記』の970年の項はスヴャトスラーフが息子たちをルーシ各地に派遣した記事で終わっている。すなわち、長男ヤロポルクにキエフを、次男オレーグにドレヴリャーネ人の地を、三男ヴラディーミルにノーヴゴロドを委ねた。これについても若干の問題があるが、まず年代については第二次ブルガリア遠征とも関連するので後回しとする。
 問題は、当初スヴャトスラーフがノーヴゴロドを無視していた点である。ノーヴゴロド市民に請われて初めて息子の派遣を検討するが、ヤロポルクにもオレーグにも断られた挙句、ノーヴゴロド市民自身の提案でようやくヴラディーミルを送り出している。

「キエフにいるのは好きではない。ドナウのペレヤスラーヴェツに住みたい。そこは我が地の中心であり、すべての富が流れ落ちてくる。ギリシャの地からは金、織物、酒、様々な果実が。チェコとハンガリーからは銀と馬が。ルーシからは毛皮、蜜蝋、蜜、奴隷が」

これはスヴャトスラーフがオリガに述べた言葉だが、ここにスヴャトスラーフの世界観が凝縮されている。かれの思い描いていたのは、ブルガリアを中心に、北にルーシ、南にビザンティン、西にチェコとハンガリーを擁する交易圏であった。そこにはバルト海、スカンディナヴィアは含まれていない。もはやノーヴゴロドは、スヴャトスラーフの視野の外にあったのである。
 ルーシの国内情勢についても、いささか示唆的である。ドレヴリャーネ人は、父を殺し、一旦はキエフの支配から離反しているから、ここに息子を派遣する重要性は頷ける。しかしその他の地は重要ではなかったのだろうか。スヴャトスラーフに息子が3人しかいなかったとは思われない。のちにヴラディーミルがするように、ルーシ各地に息子たちを派遣してもよさそうなものである。もちろん、実際には派遣したものの、ただ単に『原初年代記』がそれらを書き漏らしただけという可能性もある。しかしスヴャトスラーフの世界観や、キエフ市民のスヴャトスラーフに対する口上などを考慮してみると、この記事はむしろ、キエフ、ドレヴリャーネ人、ノーヴゴロド以外がキエフ・ルーシを中心とした統合から分離しつつあったことを示唆しているのではないかと思われる。もともとが武力で一方的に、しかもたかだか80年程度前に統合したものでしかない。中心権力の目が国内統一よりも外国に向けば、諸部族は簡単に離反していくであろう。
 『原初年代記』によれば、980年の時点でポーロツクに公として君臨していたローグヴォロドは、「海の彼方からやって来た」。名前からしてもかれはヴァリャーギである。すなわち、ローグヴォロドは980年以前のいずれかの時点でポーロツクを征服した、ということである。それはスヴャトスラーフの死後という可能性も十分あるが、スヴャトスラーフの生前であった可能性も否定できない。オレーグイーゴリがポーロツクを征服したとの記述は『原初年代記』にないので、ここはまだキエフ・ルーシの勢力圏外であったのだろう。実際ローグヴォロドは、スヴャトスラーフの跡を継いだヤロポルクヴラディーミルと対等の立場にあったらしく描かれている。しかし、コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスによれば950年の時点でキエフ・ルーシの勢力圏に入っていたらしいドレゴヴィチーにも、『原初年代記』によれば980年の時点でトゥールなる独自の公がいた(かれにちなんでトゥーロフは名付けられた)。いったいいつドレゴヴィチーは独自の公を擁立したのだろうか。別の言い方をすれば、いったいいつキエフ・ルーシはドレゴヴィチーに対する支配権を喪失したのだろうか。
 984年、ヴラディーミル偉大公はラディーミチに遠征している。ラディーミチと言えば、すでに100年も前にオレーグが制圧した筈の部族である。
 これらからしても、スヴャトスラーフの治下においてキエフ・ルーシの統一が崩れつつあったとの印象を強くせざるを得ない。

ただし厳密に言うと、ラディーミチがキエフ・ルーシから離反したのはスヴャトスラーフの死後、977-980の内紛に際して、かもしれない。あるいはスヴャトスラーフの跡を継いだヤロポルクの時代(972-980)に中央の統制が緩んだという可能性も否定できない。ローグヴォロドやトゥールの登場も、同じ時期だとも考えられる。史料があまりに少ないので、確定的なことは何ひとつ言えない。故に、スヴャトスラーフの治下においてもキエフ・ルーシの国家的統一は揺るぎなかった、という正反対の結論も否定はできない。

 スヴャトスラーフが三子にキエフ・ルーシの各地を委ねたことについて、カラムジーンは次のように述べている。

かくして、スヴャトスラーフは息子たちに独自の分領を与えるという慣習を初めて導入した。この慣習は、不幸な、ロシアのすべての災厄の元凶となった先例である。

 この評価には異論もあり得るし(特に分領制度が「ロシアのすべての災厄の元凶」とされる点)、スヴャトスラーフにも擁護すべき点はある。ノーヴゴロドに公を派遣したのは、「派遣してくれなければ自分たちで勝手に公を連れてくるぞ」と脅されたからであるし、ドレヴリャーネ人も離反しがちで、統合しておくにはむしろ独自の公を派遣する方が良かったという側面もあったろう。しかし息子ヴラディーミル偉大公も孫ヤロスラーフ賢公も同様に諸子に分領を与えており、その結果として兄弟間、一族間で血で血を洗う争いが起こり、それが国家の統合力を弱めたのは事実と言っていい。故に、結果論からしてスヴャトスラーフが悪しき先例をつくった点は否定できない。
 『原初年代記』の語るスヴャトスラーフの事績は対外関係に限定されているが、このように、その内政を示唆させる史料もないではない。それは、諸部族統一という観点からすれば否定的なものであるが、他方において宗教政策という観点からするとスヴャトスラーフのむしろ肯定的な側面が見えてくる。
 すなわち、オリガの項で詳述したが、スヴャトスラーフはキリスト教に対して比較的寛容な態度で臨んでいたように思われる。『原初年代記』によれば、すでにイーゴリの時代にはキエフに教会が存在したし、ヨアキーム年代記の記述を見ても、キリスト教徒の数が決して少なくなかったことが窺える(ヨアキーム年代記の信憑性には疑問もあるが)。

 すでに述べたように、イブン・ハウカルによれば、ルーシがハザールを襲撃したのは968-969年のことである。時系列的には、『原初年代記』の記述と矛盾しない。すなわち、もし968-969年のハザール襲撃がスヴャトスラーフによるものだとして、その場合スヴャトスラーフはハザールを2度襲撃したか、あるいは964-965年が『原初年代記』の間違いだということになるが、いずれにせよ、ペチェネーギの来襲でキエフに取って返したスヴャトスラーフはすぐさまヴォルガ・ブルガールとハザールを襲撃し、キエフに戻ってオリガの死に立ち会った、ということになろうか。
 のちの対ビザンティン戦争において、ビザンティン側にはハザールがついていたとする史料がある。これは十分に考えられることで、単純化するとルーシ & ハンガリー & ペチェネーギ vs ビザンティン & ブルガリア & ハザールという対立の構図が描かれる。すなわち、スヴャトスラーフが969年にハザールを襲撃したとすれば、それはいずれ来たる対ビザンティン戦争を見据えて、まずその同盟者ハザールを弱体化させる意図の下におこなわれたと考えることも可能であろう。

もちろんルーシ & ハンガリー & ペチェネーギ vs ビザンティン & ブルガリア & ハザールという対立の構図は、固定的なものではない。実際ペチェネーギは968年にキエフを襲い、972年にはスヴャトスラーフを殺しているのだから。またブルガリアも、スヴャトスラーフに制圧されていた971年前後にはその軍に従っている。この図式はあくまでも968年から970年(頃)までの期間に限定される。
 なお、当時のハンガリーの国内事情に目を向けてみると、ハンガリーは955年にレヒフェルトの戦いで皇帝オットー1世に敗れて以来、西欧への略奪をやめ、代わってブルガリアを侵略した。これに耐えかねたブルガリアがハンガリーと同盟を結び、ハンガリーの矛先をビザンティン帝国に向けさせたのは上述の通り。そしてレヒフェルトの戦い以来ハンガリーを率いていたのがタクショニである。かれの治世、ムスリムやペチェネーギがハンガリーに大量にいたことを伝える史料があり、かつてハンガリー部族連合を南ウクライナから追ったペチェネーギと、この時期友好関係が結ばれていたことが覗える。このような事情からすると、スヴャトスラーフとタクショニが対ビザンティンで同盟関係を結んでいたとしても不思議はない。タクショニは972年頃に死んだとされているから、スヴャトスラーフの第二次ブルガリア遠征にタクショニ自身が軍を率いて参加していた可能性も否定できない。ただしいかなる史料にも、スヴャトスラーフのブルガリア遠征・対ビザンティン戦争にタクショニがかかわっていたとの記述は存在しない。

 スヴャトスラーフによる第二次ブルガリア遠征は、輔祭レオンやスキュリツェスによれば969年、『原初年代記』によれば971年のことである。
 この時スヴャトスラーフが率いたのは、『原初年代記』によれば 10 000 人だが、輔祭レオンは 60 000 人と伝えている。数以上に問題なのが、輔祭レオンもスキュリツェスも、ルーシ軍にはハンガリー人やペチェネーギも同道していた、としている点である。ペチェネーギは、キエフを攻略したかと思えばここではスヴャトスラーフと同盟しており、しかものちには再び敵対してスヴャトスラーフを殺している。他方でハンガリーについては、『原初年代記』はほとんど記すところがないが、おそらく当時のルーシはかなり密接な関係にあったのではないかと想像される。
 第二次遠征の動機は何であったろうか。『原初年代記』の伝えるスヴャトスラーフのセリフがそのまま動機を説明している。しかし、ここにもうひとつ別の動機があったとも考えられる。第一次遠征を無視している輔祭レオンはここでカロキュロスを持ち出しているが、スキュリツェスもこの第二次遠征に際してカロキュロスについてのあるエピソードを伝えている。つまり、両者の言うところによると、カロキュロスは皇位の簒奪を目論み、その助力をスヴャトスラーフに要請した、というのである。ビザンティンをも視野に入れた交易圏を構想していたスヴャトスラーフとしては、これは渡りに船の提案であったろう。

 第一次遠征については、スキュリツェスだけでなく『原初年代記』もかなりあっさりと流していたが、第二次遠征については詳細を伝えている。ただしその詳細に、かなりの食い違いが見られる。
 『原初年代記』は、スヴャトスラーフがブルガリアと戦ってペレヤスラーヴェツを奪ったとしている。ただし、これによりブルガリアを征服したとも、その後ブルガリア皇帝がどうなったとも伝えていない。
 輔祭レオンによれば、スヴャトスラーフが奪ったのはシリストラである。そのため当時首都プレスラフにいたブルガリア皇帝ペタル1世は発作を起こし、皇位を息子ボリスに譲って修道院に隠棲したとしている。ブルガリア(ペタル? ボリス?)はニケフォロス・フォカスと交渉し、その結果ニケフォロス・フォカスはブルガリアと結んでルーシと対抗する道を選んだ。しかし971年の時点ではルーシがプレスラフをも領有し、ボリスもその虜囚となっているので、いつかの時点でスヴャトスラーフはブルガリアのほぼ全土(少なくとも中心部)を征服し、ボリスをも捕らえたのだろう。
 スキュリツェスは、征服の詳細こそ伝えていないが、ボリスも弟ロマンもルーシの捕虜となっていると述べている(ただしペタルについては無視している)。
 ビザンティンでは969年、クーデタが起こり、ニケフォロス・フォカスが殺されてイオアンネス・ツィミスケスが皇帝となっている。このような重大事が、ルーシの第二次ブルガリア遠征と時系列上からんでいるのであるから(ブルガリアと対ルーシ同盟を結んだのはイオアンネス・ツィミスケスではなくニケフォロス・フォカス)、第二次遠征が969年の出来事であるのは確実と考えていいだろう。だからこそ一般的にもペタルの退位と死去は、輔祭レオンの記述を基に、それぞれ969年と970年とされているのである。
 ここから遡って考えると、スヴャトスラーフはオリガが死んだ直後に第二次遠征に乗り出したということになろう。当然息子たちをルーシ各地に派遣したのも969年のことであったということになる。あるいは、ブルガリアしか眼中になかったスヴャトスラーフは、ヤロポルクをキエフに残すことでルーシを棄てたつもりになっていたのかもしれない。

 カロキュロスの提案があってか、第二次ブルガリア遠征はそのまま対ビザンティン戦争へと発展した。もっとも、スヴャトスラーフの側にその気がなかったとしても、ニケフォロス・フォカスの側の政策転換からルーシとビザンティンとの対立は必然であったろう。皇位を簒奪したイオアンネス・ツィミスケスは、スヴャトスラーフに講和を提案しているが、スヴャトスラーフがこれを一蹴している。ただしこの時スヴャトスラーフは、占領地や捕虜の代金が払われるならば撤退すると述べているので、カロキュロスとの約束を反故にするつもりだったのか、それとも端から意図していなかったのか。この辺り、スヴャトスラーフにとってブルガリアが(ひいてはルーシが)どのような意味を持っていたのか、推測することが難しい。
 970年に入り、スヴャトスラーフはコンスタンティノープルを目指して出陣し、これに対してビザンティン軍はアルカディオポリス近郊でこれを迎え撃ち、結果ルーシが敗北した。この時ルーシ軍には、ハンガリー人やペチェネーギに加えてブルガリア人も従軍していたとされているので、この時点までにはスヴャトスラーフはブルガリアを平定していたと見ていいだろう。このアルカディオポリスの戦いについては、『原初年代記』は一切伝えていない。痕跡としては、コンスタンティノープルに迫ったものの、«貢納を受け取って» 撤退した、という記述がそれらしく思われる。
 アルカディオポリスの勝利により、ビザンティンは息継ぎをする余裕を得た。ちょうどこの時、アジアで叛乱が勃発し、970年の残りはそれに忙殺されたからである。輔祭レオンによれば、これにつけ込んだルーシがこの間にマケドニアを蹂躙した。

 971年、叛乱を鎮圧した皇帝イオアンネス・ツィミスケスが満を持して親征してきた。プレスラフ近郊の戦い、プレスラフ攻囲戦に相次いで勝利し、スヴャトスラーフのいたシリストラにまで迫った。徹底抗戦を主張するスヴャトスラーフの下、ルーシが野戦を挑むが敗北する。ビザンティン側の史料によれば、イオアンネス・ツィミスケスは連戦連勝であり、スヴャトスラーフは負けっ放しである。
 『原初年代記』はこれとまったく逆を伝えている。そもそもアルカディオポリスの戦いすら伝えていない『原初年代記』は、プレスラフやシリストラの戦いについても一切沈黙している。ただどこで戦ったとも言わずに、ルーシが勝利したと伝えているだけである。
 これらの戦いの詳細についてはここでは省くが、注目すべき点がいくつかある。それは、スヴャトスラーフ以外のルーシの固有名詞が登場することである。
 ひとりがイクモル。輔祭レオンによれば、スヴャトスラーフに次ぐルーシのナンバー2である。シリストラの戦いで戦死した。
 もうひとりがスフェンケル。輔祭レオンによればナンバー3であるが、スキュリツェスによればかれこそがナンバー2となる(スファンゲルと書かれている)。プレスラフ攻囲戦を指揮し、これが陥ちるとシリストラに撤退。スヴャトスラーフに合流するが、シリストラ近郊の戦いでこれまた戦死した。学者の中には、音の相似からかれをスヴェネリドと同一視する者もある。
 なお、ペタルの跡を継いでブルガリア皇帝となっていたボリスは、プレスラフ攻囲戦でビザンティンの捕虜となった。ちなみにここで、スヴャトスラーフのブルガリア支配の体制を考えてみると、史料からは伺い知ることができないものの、おそらくボリスにブルガリア皇帝という名目は認め、言わば間接統治の形を取っていたのではないかと想像される。でなくば、簡単にブルガリア軍を自身の遠征に従軍させることはできないだろう。

 『原初年代記』は、フォカスの名もツィミスケスの名も本文中では伝えていない。唯一、スヴャトスラーフがイオアンネス・ツィミスケスと結んだ講和条約中で「ツィミスケス」が現れるだけである。このことからしても、ルーシ側に残るブルガリア遠征、対ビザンティン戦争についての伝承が断片的なものでしかなかったのではないかと想像される。
 その『原初年代記』によれば、皇帝はビザンティン軍を撃破しつつコンスタンティノープルに迫るスヴャトスラーフに対して、再三にわたって講和を申し出、貢納を差し出して撤退してもらった。その後ペレヤスラーヴェツに戻ったスヴャトスラーフは、ビザンティンとの戦闘で思った以上に損害が出ていたため、一旦ルーシに戻って兵力を増強することを決意。シリストラで皇帝と講和した。
 当然、ビザンティン側の伝える状況はまったく異なる。イクモル、スフェンケルといった軍司令官を失い、シリストラ近郊で最後の戦いを挑んで敗れたスヴャトスラーフは、イオアンネス・ツィミスケスに講和を提案。自らイオアンネス・ツィミスケスと会見し、対ビザンティン戦争は終わった。

 シリストラ攻囲戦の始まった直後、ドナウにビザンティン海軍が出現している。ビザンティンが制海権を握っていたということだろう。そう言えば、『原初年代記』によれば、968年に帰国した際にもスヴャトスラーフは騎馬であり、船を使っていない。もっとも輔祭レオンによれば、第二次遠征はドナウから海路ブルガリアにやって来たらしい。

 講和条約についてビザンティン系史料は一切伝えていないが、『原初年代記』には大要以下のように書かれている(あくまで要約である)。

6479年7月、シリストラにて、スヴャトスラーフとスヴェネリドの下、イオアンネス・ツィミスケスに対して書かれた条約。スヴャトスラーフとすべての臣下は、世界の終わりまでギリシャの皇帝に対して平和と愛情を維持する。貴国に対して、ケルソネソスの地に対して、ブルガリアに対して、悪意を抱くことなく、戦士を招集することなく、他の民族を差し向けることもない。貴国に悪意を抱く者に対しては、我がその敵となり、これと戦う。もしこの誓約に背くことあらば、我よ、ペルーンとヴォーロスに呪われよ。

 この条約についても問題が多い。
 第一が、スヴェネリドが特記されている点である。確かに『原初年代記』によれば、スヴェネリドはイーゴリ以来のルーシの重臣である。しかしビザンティン側の史料では、ルーシのナンバー2はイクモル、ナンバー3はスフェンケルである。上述のようにスフェンケルとスヴェネリドを同一視する研究者もいるが、シリストラで戦死したスフェンケルと、その後もヤロポルクの重臣であったスヴェネリドは到底同一人物ではあり得ない。とすると、可能性は3つである。当時スヴェネリドはナンバー4以下であったか、輔祭レオンやスキュリツェスがかれの存在を知らなかったか、あるいはそもそもブルガリア遠征には従軍していなかったか、であろう。様々な記述からして、スヴェネリドよりも重要な人物が当時ルーシにいたとは思われない(大公は当然別格である)。ゆえに可能性は後二者のいずれかであろう。結論は出せないが、いずれであれ、この条約でスヴェネリドがスヴャトスラーフと併記されているというのは、かなり奇異である。
 第二に、ケルソネソスの地が特記されている点である。ブルガリアが特記されているのは当然であろう。しかし、何の関係もないケルソネソスがなぜ。やはりニケフォロス・フォカスがカロキュロスをスヴャトスラーフに派遣してブルガリア遠征を唆した理由として、スヴャトスラーフの目をケルソネソスから逸らすという意図があったということだろう。しかしそれだけだろうか。『原初年代記』やビザンティン系史料すら伝えていないが、実は当時、ルーシはケルソネソスに対してかなり圧迫を加えていたのではないだろうか。
 第三に、ペルーンとヴォーロスのみが挙げられ、その他の神、具体的にはキリスト教の神ヤハウェが挙げられていない点である。すでに945年の条約で、ルーシは神(ヤハウェ)とペルーンにかけて誓約している。30年を経て、キリスト教徒がいなくなってしまったということになる。これはオリガの存在も考慮すれば、考えづらい。
 第四に、スヴャトスラーフ(とその臣下)の義務だけが列挙されている点である。すなわち、一方から言えばこれは不平等条約であり、他方から言えばこれはビザンティンとルーシではなくビザンティンとスヴャトスラーフとの間の条約である。ビザンティンとスヴャトスラーフとの間の条約であれば、第三の問題点も解決される。異教徒のスヴャトスラーフがキリスト教の神の名を挙げる筈もないからである。しかしそうなると、対ビザンティン戦争はキエフ・ルーシの国家事業ではなく、スヴャトスラーフの個人的冒険だったということになる。
 この第四の問題点、特に「対ビザンティン戦争はスヴャトスラーフの個人的冒険だったのではないか」という疑問は重要である。すでに述べたように、遠征の途上にいたはずのティーヴェルツィについて、『原初年代記』は沈黙している。それどころか、907年と944年のコンスタンティノープル遠征に際しては従軍した諸部族をいちいち列挙していた『原初年代記』が、2度のブルガリア遠征に際しては誰を連れていったとも書いていない。もっとも941年のコンスタンティノープル遠征についても、『原初年代記』は従軍した諸部族を挙げていないので、このことだけで何らかの結論を出すのは早計であろうが。
 改めて考えてみると、第二次ブルガリア遠征でスヴャトスラーフが率いていたのは輔祭レオンによれば 60 000 人だが、これにはハンガリー人もペチェネーギも含まれている。否、現地で徴兵したブルガリア人も含まれていたのではないだろうか。なればこそ、『原初年代記』はスヴャトスラーフの兵を 10 000 人と伝えているのであろう。そしてこの 10 000 人にもハンガリー人やペチェネーギが含まれていた可能性は否定できない。『原初年代記』は誇大な戦果を誇っているが、実際によく検討してみると、また輔祭レオンやスキュリツェスを読んでみても、ルーシがブルガリアを領土的に征服したとは述べられていない。シリストラやプレスラフといった主要都市を制圧し、皇帝を確保したことによりブルガリアを屈服させていたにすぎないとも考えられる。要するに、第二次ブルガリア遠征に赴いたルーシが意外に小数だった可能性は排除されないのである。
 しかしこれも、もしすでに上でおこなった考察が正しいとすれば、当然のことであろう。すなわち、スヴャトスラーフの治下においてキエフ・ルーシの部族的統一は崩壊しつつあった。ヴャーティチは一旦は制圧されたもの、そのまま勢力圏に組み込まれるには至らなかった。ドレゴヴィチーが自立して独自の公を擁立したのもこの頃かもしれない。ラディーミチもこの頃からキエフ・ルーシからの自立傾向を強めていたのかもしれない。少なくともノーヴゴロドは、「公を派遣しなければ、自分たちで勝手に公を調達するぞ」と脅す程度にはスヴャトスラーフから自立していた。征服したばかりのドレヴリャーネがキエフ・ルーシに統合されていたとは到底思われず、極論すればキエフ・ルーシはポリャーネとセヴェリャーネだけの連合体になっていたということも可能性としては否定できない。
 しかも、もしオリガの項でも、また上でも論じたように、キエフ・ルーシに親ビザンティン派と反ビザンティン派の対立があり、親ビザンティン路線を推進する貴族がオリガを、そして続いてスヴャトスラーフを擁立したのだとすれば、かれらがビザンティンに敵対するブルガリア遠征を支持する筈がない。
 第一の問題点についても、こう考えれば新たな可能性が見えてくる。すなわち、そもそもキエフ・ルーシ第二の重要人物であったスヴェネリドはブルガリア遠征には従軍していなかったのではないだろうか。おそらく親ビザンティン路線を支持していたからであろう。そのかれが講和条約で名を挙げられているということは、スヴェネリドも当時シリストラにいたということであろうから、おそらく相次ぐ敗戦を受けてスヴャトスラーフが援軍を要請し、それを率いてきたのがスヴェネリドだった、ということではないだろうか。あるいはそもそも援軍を率いてなどいなかったかもしれない。なんとなれば、スヴェネリドがブルガリアにやってきたのは、ビザンティンとの戦争を終わらせるためだっただろうから。そのスヴェネリドがスヴャトスラーフと並んで講和条約の主体となっているのは、おそらくビザンティン側の要請であったろう。すなわち、ビザンティン側としてはキエフ・ルーシが国家としてそのボスの手綱を引き締めることを期待してのことではないだろうか。
 ただしこの辺りになると、もはや空想の域と言うべきかもしれない。

 条約締結後、スヴャトスラーフは、ドナウ河畔にてイオアンネス・ツィミスケスと会見した。輔祭レオンはスヴャトスラーフの外見を次のように伝えている。

中背で、特に大男でも小男でもない。眉は濃く、目は青い。だんご鼻で、アゴ髭は剃ってあるが、唇の上からは濃く長い毛が垂れ下がっている。頭は禿げ上がっているが、一方の側から毛の束が垂れ下がっている。これは高貴な生まれを示すものである。がっしりした首で、肩(胸)は広く、体躯は均整がとれている。

個人的な印象を言わせてもらえば、この外見はどう考えてもヴァイキングではなくコサックである。コサックの風習はテュルク系民族のそれを取り入れているから、これはつまり古来ステップを行き来した遊牧民族の風習と言ってしまってもいいかもしれない。系図上は海を越えてやってきたヴァイキングを祖父に持つスヴャトスラーフは、早くも祖父の風習を棄てていたということになろう。

 最後に、スヴャトスラーフの最期がまた問題である。
 輔祭レオンによれば、スヴャトスラーフとルーシは船でキエフに向かった。しかしその途上、ペチェネーギの襲撃を受け、スヴャトスラーフを含む多くのルーシが殺された。
 スキュリツェスによれば、スヴャトスラーフの要請を受けてイオアンネス・ツィミスケスがペチェネーギにルーシの通過を許すよう要請した。しかしビザンティンと講和を結んだスヴャトスラーフに怒っていたペチェネーギは、イオアンネス・ツィミスケスの要請を蹴り、海路帰国の途上にあったスヴャトスラーフとルーシを襲い、これを全滅させた。
 『原初年代記』によれば、スヴャトスラーフは同じく海路帰国の途についた。早瀬に達すると、スヴェネリドが陸路を騎馬で行くことを勧めたにもかかわらず、これを聞かずにそのまま船で早瀬を渡ろうとした。他方でペレヤスラーヴェツ市民がペチェネーギを唆し、このためスヴャトスラーフとルーシは早瀬を渡ることができず、ベロベレージエにて越冬を余儀なくされた。翌972年の春を迎え、スヴャトスラーフとルーシは再び早瀬に至ったが、ペチェネーギの襲撃を受け、スヴャトスラーフは殺され、その頭蓋骨は杯にされた。スヴェネリドだけがキエフに帰りついたという。
 このように、スヴャトスラーフとルーシが船で海路を辿ったというのは事実であろう。とすると、黒海を横断してドニェプルを遡ったということになる。かつてコンスタンティノス・ポルフュロゲネトスが挙げた7つの早瀬のうちのいずれかにおいて、スヴャトスラーフとルーシがペチェネーギの襲来を受けたということだろう。輔祭レオンもスキュリツェスも詳細を知っていたとは限らないから、ここは『原初年代記』の記述を採用するとすると、スヴャトスラーフとルーシはドニェプル河口部において越冬したということになろう。こんにち、オチャコフの対岸、クリミア半島から延びる砂州が «ベロベレージエ・スヴャトスラーヴァ» という名の自然公園に指定されているが、ここがベロベレージエだと考えられている。しかしスヴャトスラーフが命を落とした早瀬がどこかは不明である。
 しかしペチェネーギはなぜスヴャトスラーフを襲撃したのだろうか。古来、ビザンティンが使嗾したとする説があるが、これはおかしい。ビザンティンにすればむしろスヴャトスラーフを生かしておいて、条約を遵守させる方に利があっただろう。スキュリツェスも、イオアンネス・ツィミスケスがわざわざペチェネーギにルーシの通過を認めるよう要請した、と述べている。他方で『原初年代記』の記述は、いたずらにペレヤスラーヴェツ市民を悪者扱いするもので、果たしてどこまで信用できるだろうか。スキュリツェスの言うように、ペチェネーギは独自の論理で動いていたのではないだろうか。すなわち、自分たちを遠征に誘っておいて、また徹底抗戦を唱えておきながら、独断でビザンティンと講和を結んだスヴャトスラーフに怒っていたのだろう。
 また、細かいことだが、この記述にスヴャトスラーフとスヴェネリドの関係が透けて見える気がする。もし上述の推測が正しいとすれば、ビザンティンとの戦争を推進したスヴャトスラーフと、これを終わらせるためにやってきたスヴェネリドの関係が良かろうはずもない。陸路を勧めたスヴェネリドの忠告をスヴャトスラーフが無視した背景に、そのような感情的なしこりがあったと想像することもできよう。さらに穿って考えてみれば、スヴェネリドだけがキエフに帰りついたということは、ベロベレージエにてスヴェネリドはスヴャトスラーフと袂を分かち、単騎で陸路帰国したのではないだろうか。

 ヨアキーム年代記は、その信憑性に疑問の残る史料だが、そこに次のような記述がある。

オリガの死でスヴャトスラーフはドナウのペレヤスラーヴェツに移り、ハザール、ブルガール、ギリシャと戦い、妻の父、ハンガリーの公、ポーランドの公から支援を得て、一度ならず勝利したものの、ついにはドナウの彼方の長大な壁のところで(この壁が何でどこにあるのか、わたしは叙述を見つけていない)、全軍が壊滅した。この時悪魔が罪深い貴人たちの心をかき乱し、キリスト教徒が偽の神を怒らせたから軍が壊滅したのだと、軍中のキリスト教徒たちを誹謗した。かれ(スヴャトスラーフ)は大変激怒し、たったひとりの弟グレーブをも容赦せず、様々な苦痛でさいなんで殺した。かれらは歓喜とともに殉教に赴いたが、キリストの信仰を否定して偶像を礼拝することを拒否し、喜んで殉教の栄誉を受けた。その強情さを見て、公は、特に司祭に対して、何らかの魔術で人々を惑わして信仰を固めさせているのだとして怒り、キエフに部下を送り、キリスト教の聖堂を破壊し焼き討ちさせた。また自身もすぐに、すべてのキリスト教徒を皆殺しにするために出立した。しかし神は、いかに従順なる人々を救い、邪悪なる者を滅ぼすべきかご存知で、公がすべての戦士をキエフに向けて野に放ち、自身は小数とともに舟で出立すると、ドニェプルの早瀬にて、かれらにペチェネーギが襲いかかり、かれのもとにいた全員を殺した。こうして神の裁きを受けた。

(この壁が……)は、ヨアキーム年代記を自著『ロシアの歴史』に引用したタティーシチェフによる注。「わたし」とはタティーシチェフのこと。

 とりあえずこの記述に則って考えてみると、ルーシ & ハンガリー & ポーランド vs ハザール & ブルガリア & ギリシャという対立の構図が冒頭で述べられている。ポーランドをペチェネーギに置き換えると、ビザンティン側の史料が描き出す構図とそっくり同じになる。ルーシがいずこかで大敗を喫したこと、ルーシが撤退したこと、海路帰国しようとしたスヴャトスラーフがドニェプルの早瀬でペチェネーギに殺されたこともまた、他の史料と一致する。
 問題は、ルーシ軍中にキリスト教徒がいたこと、スヴャトスラーフに弟グレーブがおり、これを敗戦後に殺したこと、さらにキエフの教会を破壊させたことが、ほかに見られない情報として記載されていることである。
 ルーシの中にキリスト教徒がいたのは、不思議でも何でもない。むしろ、オリガの項で考察したように、キリスト教が徐々にルーシに浸透しつつあったとすれば、当然のことと言えるだろう。
 グレーブについてはイーゴリの項でも考察したが、個人的にはその存在は十分に信じられると思う。ただし、ビザンティンに対する責任を転嫁されて実の兄に殺された、とする点については、作為があった可能性も否定できないだろう。
 作為性は、キエフの教会を破壊させたとする点により強く感じられる。スヴャトスラーフが横死したのは神の裁きである、という結論を導かんがために、キエフの教会を破壊し、さらにキリスト教徒を皆殺しにしようとし、あるいはさらに実弟すらもその手にかけたという話をでっち上げたようにも思われる。ビザンティン系史料を全面的に信用するわけではないが、敗戦に次ぐ敗戦で、わざわざキリスト教を弾圧するために部下をキエフに派遣する余裕などスヴャトスラーフにはなかったのではないか。むしろ増援の要請の方が急務であろう。もちろんその片手間にキリスト教徒を弾圧させた可能性は否定できないが、その場合でもスヴャトスラーフとキエフとの関係が問題となる。すなわち、もしこれまでの考察が正しければ、スヴャトスラーフのキエフにおける権威は弱体化しつつあった。ましてすでに長男ヤロポルクをキエフの実質的な支配者として残してきているのである。おそらくヤロポルクを支えていたのは、«親ビザンティン派» であったろう(その筆頭がスヴェネリドであった)。かれらが、キエフを見棄てたスヴャトスラーフの命令を素直に聞いたであろうか。

 なおスキュリツェスによれば、ルーシの支配者 «ネシスラフ» と «イエロスラフ» が死に、その親族の «ジニスラフ» が後継者に選ばれたという。厳密にはこれがいつのことか不明だが、その著書『歴史の概要』が1057年までを扱っている以上、それ以前のことと考えられる。叙述の流れからすれば、スヴャトスラーフが死んでからしばらくして、10世紀末のことのように読める。
 いずれの時代であろうと、キエフ・ルーシに «ネシスラフ»、«イエロスラフ»、«ジニスラフ» などという名は存在しない。スラヴ語が転訛したか、あるいは何らかの誤伝か。それともキエフ・ルーシ以外のルーシについての話だろうか。

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最終更新日 06 08 2016

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