スヴャトポルク・ヤロポールチチ «オカヤンヌィイ»
Святополк Ярополчич "Окаянный"
トゥーロフ公 князь Туровский (988-1015)
キエフ大公 великий князь Киевский (1015-16、18-19)
生:980−ノーヴゴロド
没:1019
父:キエフ公ヤロポルク・スヴャトスラーヴィチ (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ)
母:(ギリシャ人修道女)
結婚:
& ? (ポーランド王ボレスワフ1世勇敢王)
子:?
第5世代。洗礼名ピョートル。
978・980年、ヤロポルク・スヴャトスラーヴィチはヴラディーミル偉大公に殺される。この時ヴラディーミル偉大公は、ヤロポルクの妾であったギリシャ人修道女を自分の妾とした。やがてギリシャ人修道女は男子スヴャトポルクを生むが、実はすでにヴラディーミル偉大公の妾となった時点で妊娠していたとされる。
こうして生まれたスヴャトポルクは、つまり形の上ではヴラディーミル偉大公の子であるが、実際にはヤロポルクの子であったと言うのだ。
おそらくこの年代記の記述は広く一般的に受け入れられている。
1018年にキエフを奪還した際に、スヴャトポルク・ヤロポールチチはヤロスラーフ賢公の継母(ヴラディーミル偉大公の後妻)や姉妹を妾にしている。この話が作り話でないとすれば、これはスヴャトポルク・ヤロポールチチ自身が自分をヴラディーミル偉大公の子ではない、と認識していた証拠と見ることができる。
このためこんにち、スヴャトポルクを «ヴラディーミロヴィチ» と記す歴史書はひとつもない。そのくせ、どの歴史書も、ヴラディーミル偉大公の子らをスヴャトポルク・ヤロポールチチの「兄弟」と呼んでいる。
ただし、ヴラディーミル偉大公自身はスヴャトポルク・ヤロポールチチを自分の実子として扱った、とされる。
ヴラディーミル偉大公の実子たちとの長幼の順は必ずしもはっきりしないが、上記の年代記の記述が正しければ、スヴャトポルク・ヤロポールチチの生まれたのはヴラディーミル偉大公がキエフを征服した年か翌年。これがいつかは実ははっきりしないが、おおよそ早くて977年、遅くて980年と考えられている。
ヴラディーミル偉大公とログネーダ・ローグヴォロドヴナとの間の子たち、特にその長男はまさしく同じ頃に生まれたと想像される。しかし一般的にそれ以外のヴラディーミル偉大公の子らはいずれも980年代に生まれたと考えられているので、スヴャトポルク・ヤロポールチチは、ヴィシェスラーフ・ヴラディーミロヴィチに、あるいはさらにイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチに次ぐ年長者であったと想定していいだろう。
987・988年、父(? 叔父?)ヴラディーミル偉大公は、諸子をルーシ各地に派遣する。スヴャトポルク・ヤロポールチチはトゥーロフを与えられた。キエフの北西に隣接するトゥーロフは、古くからドレゴヴィチー人が独自の公国をつくっていた地であり、また地政学的にも重要な地であった。
もっとも、スヴャトポルク・ヤロポールチチはこの時せいぜい8歳か10歳。とうてい自ら統治することなどできるはずもない。単なる傀儡でしかなかったはずだ。
988・990年、ヴラディーミル偉大公がキリスト教に改宗。これに伴いスヴャトポルク・ヤロポールチチも改宗させられた。洗礼名ピョートル。
その後10数年のスヴャトポルク・ヤロポールチチの動静は不明。年齢を考えれば当たり前の話ではあるが、おそらくこの時期の養育環境、生活環境が影響したのかもしれない。後年スヴャトポルク・ヤロポールチチは、キリスト教に批判的で、古いルーシの神々を信奉する «背教者» に成長していった。
1013年頃、北西に隣接するポーランドの王女と結婚。これは当然ヴラディーミル偉大公によってあつらえられた政略結婚だった。
新妻と、彼女とともにトゥーロフにやってきた司教ラインベルンを通じて、ポーランド王ボレスワフ勇敢王はスヴャトポルク・ヤロポールチチに、ヴラディーミル偉大公への反抗を唆す。自らの出生のいきさつ(と実父の復讐)、キリスト教に対する批判などもあって、もとからヴラディーミル偉大公への反発はあったのだろう。スヴャトポルク・ヤロポールチチはボレスワフ勇敢王と共謀して本格的に叛乱を企てるようになったらしい。
しかしこの計画は事前にヴラディーミル偉大公に漏れた。スヴャトポルク・ヤロポールチチ、妻、ラインベルンは捕らえられ、投獄された。
スヴャトポルク・ヤロポールチチは、1013年にはボレスワフ勇敢王の取り成しで釈放されたが、ヴィーシュゴロド(キエフ近郊)に追放され、監視下に置かれた。ヴィーシュゴロドの公とされた、とする歴史書もあるが、監視下に置かれたという点では一致している。
しかし人生、何が幸いするかわからない。
1015年、ヴラディーミル偉大公が死去。キエフの近郊にいたスヴャトポルク・ヤロポールチチは、すぐさまキエフに入り、これを確保することに成功した。
ヴラディーミル偉大公の子らは、すでにこの時点で生死不明の者が多い。それらを除くと、ノーヴゴロド公ヤロスラーフ賢公、トムタラカーニ公ムスティスラーフ勇敢公、プスコーフ公スディスラーフ、ドレヴリャーネ族の公スヴャトスラーフ、ロストーフ公ボリース、ムーロム公グレーブが生き残っていた。
ヴラディーミル偉大公の寵愛を一身に浴びてキエフにとどめおかれていたボリースは、ちょうど父の従士団をすべて引き連れてペチェネーグ人への遠征途上であったが、キエフ市民の一部がかれを公として迎え入れようとする。スヴャトポルク・ヤロポールチチはボリースを暗殺させた。さらにキエフに向かいつつあったグレーブも、このふたりの暗殺の報せを受けてハンガリー(?)に逃亡しようとしたスヴャトスラーフも暗殺させる(もっとも、以上3件の暗殺については近年疑問の声が発せられているようだ)。
ムスティスラーフ勇敢公とスディスラーフはおそらくまだこの頃は幼かったのか、どちらにしてもムスティスラーフ勇敢公は遠隔地なので視野の外だっただろう。となると、残るはヤロスラーフ賢公だけということになる。
1016年、ヴァリャーギをも雇い入れたヤロスラーフ賢公が軍を率いて南下。迎え撃ったスヴャトポルク・ヤロスラーヴィチは、ペチェネーグ人の支援も得たものの、リューベチ河畔の戦いで敗北。ボレスワフ勇敢王のもとに逃亡した。
態勢を立て直したスヴャトポルク・ヤロスラーヴィチは、再びペチェネーグ人も引き連れて1018年にキエフに侵攻。これにはボレスワフ勇敢王自身も出陣していた。ヴァリャーギとともにこれを迎え撃ったヤロスラーフ賢公の軍を、ブグ河畔(ヴォルィニ)の戦いで撃破。
ヤロスラーフ賢公はノーヴゴロドに逃亡したものの、キエフ、そしてルーシに対する支配権を確立したのはボレスワフ勇敢王だった。ルーシは事実上ポーランドに併合された形となった。
これには当然ルーシの人々も、そしてスヴャトポルク・ヤロポールチチも反抗する。キエフ市内でもポーランド兵の暗殺事件が頻発し、市民の抵抗に嫌気の差したボレスワフ勇敢王は、ポーランドに帰国した。
まさにこの時、ヤロスラーフ賢公が再びヴァリャーギを引き連れて南下。ポーランドとの関係を自ら絶ってしまったスヴャトポルク・ヤロポールチチには対抗するすべもなく、ステップに逃亡する。
ペチェネーグ人の支援を得たスヴャトポルク・ヤロポールチチは、1019年、キエフに侵攻。アリタ河畔の戦いで敗北を喫した。
スヴャトポルク・ヤロポールチチは再びポーランドに逃亡するが、そこでは受け入れられなかったのか、チェコに向かう途上で死んだ。死因等は不明。
添え名の «オカヤンヌィイ» とは「神に見放された」といった意味であり、キリスト教に批判的だった(しかもふたりの聖人を殺した)スヴャトポルクに反発する年代記作家たち(すべてキリスト教徒)によって与えられた。