スディスラーフ・ヴラディーミロヴィチ
Судислав Владимирович
プスコーフ公 князь Псковский (-1036)
生:?
没:1063−キエフ
父:キエフ大公ヴラディーミル偉大公 (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ)
母:?
結婚:?
子:?
第5世代。
『原初年代記』は、父の息子たちを列挙する際、スディスラーフ・ヴラディーミロヴィチの名を最後に挙げている。おそらく兄弟の中でも最年少のひとりだったものと思われる。
しかも『原初年代記』は、直後に父が息子たちをルーシ各地に派遣した記事を載せているが、そこではスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチの名を落としている。つまり、この記事は987年(988年)の項に記載されているが、この時点ではスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチは分領をもらわなかったということだろう。しかし聖ボリースや聖グレーブのように、同じくこの時点では分領をもらわなかったと思われる者もここでは分領が挙げられている。それを考えあわせてみると、スディスラーフ・ヴラディーミロヴィチは、そもそも父の存命中には分領をもらっていないのかもしれない。
以上の事実からして、スディスラーフ・ヴラディーミロヴィチが父の末男(かそれに近い)だったのはまず間違いなかろう。とすると、かれの母親はビザンティン皇女アンナか、その死後に父が再婚した妻か、ということになるのではないかと思われる。
『ニーコン年代記』によれば、スディスラーフ・ヴラディーミロヴィチは1014年に父からプスコーフを与えられている。遅くともこの時までには生まれていたということだ。
1014年と言えば、父と、ノーヴゴロド公であった兄ヤロスラーフ賢公とが対立した年である。プスコーフはノーヴゴロドの一部であり、父がスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチをこの年にプスコーフ公としたというのは、つまりはヤロスラーフ賢公に対する牽制役となることを期待された、ということだろう。
しかし両者の対立が争いにいたる間もなく、1015年には父が死去。その後スヴャトポルク・オカヤンヌィイとヤロスラーフ賢公との争いには、どうやらスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチはかかわっていないようだ。これも、あるいはかれがまだ幼かったためかもしれない。
1023年、ヤロスラーフ賢公とムスティスラーフ勇敢公との対立が本格化。ムスティスラーフ勇敢公はキエフに侵攻し、ヤロスラーフ賢公は敗北を喫する。
この時もスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチの立場はわからないが、あるいはムスティスラーフ勇敢公の側に立っていたのかもしれない。そうでなくともプスコーフはノーヴゴロドののど元に位置し、ヤロスラーフ賢公としてはスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチを放っておくわけにはいかなかったのだろう。
1024年、ヤロスラーフ賢公はスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチをプスコーフに監禁する。
実は『原初年代記』でスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチの名が987年(988年)の項の次に言及されるのは1036年の項、ヤロスラーフ賢公によってプスコーフに監禁されたという記事である。『原初年代記』は1059年に釈放された時、スディスラーフ・ヴラディーミロヴィチの監禁期間は25年に及んだ、としている。この点で計算は合っている。
しかし1036年と言えば、ムスティスラーフ勇敢公の死んだ年である。すでにヤロスラーフ賢公は1026年にムスティスラーフ勇敢公と手打ちを済ませているが、その死で潜在的にも脅威となり得る存在がいなくなったということだ。この時になってスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチを監禁するというのはいまさらで、筋が通らない。やはりスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチが監禁されたのは1024年、緊張がもっとも高まった時期であったと考えた方が良かろう。
もっとも、もしスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチがムスティスラーフ勇敢公を支持していたとするならば、ムスティスラーフ勇敢公が生きている間はかれをはばかってヤロスラーフ賢公もスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチに手を出せなかった、と考えることもできるかもしれない。ムスティスラーフ勇敢公が死んだことで、ようやく積年の恨みを晴らすべく弟を監禁した、ということなのかもしれない。ヤロスラーフ賢公が死ぬまでスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチを釈放しなかった、という事実も、あるいはそういうことなのかも。
スディスラーフ・ヴラディーミロヴィチが幽閉状態を解かれたのは、ようやく1059年、ヤロスラーフ賢公が死んで5年後、その子たちによってである。
スディスラーフ・ヴラディーミロヴィチはヤロスラーフ賢公の弟であり、1059年当時に権力を握っていたヤロスラーヴィチ兄弟にとっては叔父であって、年長権からすればスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチがキエフ大公となってもおかしくない(「なるべきだ」と言ってもいい)。ヤロスラーヴィチ兄弟が父の死後5年も経ってから叔父を釈放したというのも、あるいは自分たちの権力基盤を固めないうちは釈放する気になれなかったということなのかもしれない。
しかしスディスラーフ・ヴラディーミロヴィチは25年間(35年間?)に及ぶ虜囚生活で権力に対する野望を失ったのか、あるいはもともとそんなものは持っていなかったのか、権利を放棄し、自らキエフのゲオルギエフスキイ修道院の修道士となった。
ちなみに、兄スタニスラーフはリューリコヴィチでは唯一のスタニスラーフという名の持ち主だが、それでもこの名はポーランドで、近年ではロシアでも一般的な名である。しかしスディスラーフという名の持ち主は、リューリコヴィチはおろか、ロシアでもおそらくかれひとりだろう。
長兄とされるヴィシェスラーフもそうだし、別の兄弟ポズヴィズドなどは典型だが、かれら兄弟の時代にはまだリューリコヴィチにおける命名のルールも定まっていなかったものと見え、後の時代には見られない名が多い。