スタニスラーフ・ヴラディーミロヴィチ
Станислав Владимирович
スモレンスク公 князь Смоленский (987-)
生:?
没:1015以前
父:キエフ大公ヴラディーミル偉大公 (キエフ公スヴャトスラーフ・イーゴレヴィチ)
母:?
結婚:?
子:?
第5世代。
かれについて年代記からわかることは、その存在と名前ぐらいでしかない。母親を «チェコ人» とする史料もある。
父は987年(988年)にルーシ各地に諸子を派遣して統治させたが、『原初年代記』ではスタニスラーフ・ヴラディーミロヴィチの名は挙げられていない(ヴラディーミル偉大公の子としてその直前に名を挙げられているにもかかわらず)。『ニーコン年代記』には、スモレンスクを与えられたとする記述がある。
『原初年代記』が完全だというわけではないのは言うまでもなく、通常は『ニーコン年代記』の記述から、スタニスラーフ・ヴラディーミロヴィチも988年(987年)にスモレンスクを分け与えられた、と考えられているようだ。
しかし直前でヴラディーミル偉大公の子を列挙する際には名を挙げているのに、直後に分領を列挙する際には漏らしているというのもいささか解せない。
ひとつ考えられるのは、987年(988年)の時点ではスタニスラーフ・ヴラディーミロヴィチがまだ生まれていなかった、ということ。しかし『原初年代記』はこの記事の直前に父のキリスト教への改宗とビザンティン皇女アンナとの結婚を記している。この時点で、あまたいた妻や妾との関係は切れている。もしこの時点でスタニスラーフ・ヴラディーミロヴィチがまだ生まれていなかったとすれば、かれの母親は皇女アンナということになる。
『ニーコン年代記』の記述を疑うこともできよう。父が諸子に与えた土地は、ノーヴゴロド、ポーロツク、トゥーロフ、ロストーフ、ムーロム、ドレヴリャーネ族、ヴラディーミル(=ヴォルィンスキイ)、トムタラカーニである。これにスモレンスクを並べると、少々違和感を覚える。ノーヴゴロドはキエフに次ぐルーシ第2の都市である。ポーロツクとトゥーロフはかつて独立の公国であり、ドレヴリャーネ族も40年前に曾祖父を殺した自立心の高い部族である。ロストーフは北東、ムーロムは東、ヴラディーミルは西、トムタラカーニは南東の、それぞれ辺境に位置する。スモレンスクには、わざわざ息子を公として派遣して特別に統治すべき、どのような必要性があったのだろうか?
『原初年代記』にはヴラディーミル偉大公の子として名が挙げられているだけ(ちなみに同様の扱いを受けている兄弟は、ほかにポズヴィズドだけ)、『ニーコン年代記』などほかの史料にも、上述した以外の情報はない。つまりは父より先に死んでいたものと考えられている。
ちなみに、スタニスラーフという名はリューリコヴィチでは唯一の例となったが、元来この名はポーランド語。