リューリク家人名録

オレーグ «ヴェーシチイ»

Олег "Вещий"

ノーヴゴロド公 князь Новгородский (879-882)
キエフ公 князь Киевский (882-912)

生:?
没:912

父:?
母:?

結婚:?

子:?

素性不詳。

 オレーグという名は、古ノルド語で Helgi と解読され得る(この名はさらに Heilagr に由来するらしい)。おそらくこの通説は正しいであろう(なお、別の説もある)。

 『原初年代記』によると、オレーグの生涯は次のようになる。

 南方を平定したことで、オレーグ率いる勢力は、かなりの範囲に広がった。
 のちのルーシを形成したスラヴ人は、最北のスロヴェーネ、その南のクリヴィチー、ドニェプル流域のドレゴヴィチー、ラディーミチ、ドレヴリャーネ、ポリャーネ、その東方のヴャーティチとセヴェリャーネ、黒海沿岸(?)のウーリチとティーヴェルツィ、西方(ヴォルィニ)のドゥレーブィ(のちのブジャーネ/ヴォルィニャーネ?)と白クロアティア人の12民族である(数え方その他、異説もある)。
 このうち、オレーグの時代までにキエフ・ルーシの勢力圏には、スロヴェーネ(862)、クリヴィチー(862、882)、ドレゴヴィチー(?)、ラディーミチ(885)、ドレヴリャーネ(883)、ポリャーネ(882)、セヴェリャーネ(884)が入っていた。
 クリヴィチーはその全体ではない。862年にプスコーフのクリヴィチーがノーヴゴロドのスロヴェーネとともにヴァリャーギを招聘した後、882年にスモレンスクのクリヴィチーもオレーグに征服されたようだが、ポーロツクのクリヴィチー(ポロチャーネ)がキエフ・ルーシに組み込まれるのは後の時代の話である。
 ドレゴヴィチーが、いつ、どのような経緯でキエフ・ルーシに併合されたかをルーシ系史料は書き漏らしているが、皇帝コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスによれば950年頃までにはキエフ・ルーシの一部になっていた。882年の南征に際してオレーグに服属したのかもしれない。
 ヴャーティチは966年にスヴャトスラーフにより征服された。
 ウーリチは、ノーヴゴロド第一年代記によれば、922年にイーゴリによって併合された。ティーヴェルツィは907年と944年のビザンティン遠征に従軍しているが、キエフ・ルーシに併合されたのがいつかは不明。しかも944年以降姿を消す。ドゥレーブィも907年のビザンティン遠征に従軍したのを最後に年代記から姿を消す。いずれも、おそらく後にブジャーネ/ヴォルィニャーネになったものと推測される。
 白クロアティア人についてはよくわからないが、ウクライナ、ポーランド、スロヴァキアの国境付近にいたらしい。いわゆるクロアティア人は、かれらから分かれてバルカンに移住した一派である。907年のビザンティン遠征に従軍した後、992年にはヴラディーミル偉大公の攻撃を受け、史料から姿を消す。おそらくルーシ、ポーランド、ハンガリーに分割されたのだろう。
 ほかに、ウラル系の諸民族もキエフ・ルーシに服属していた。大雑把に言うと、ノーヴゴロドに西にチューディ、北にヴェーシ、東にメーリャがいた。チューディとヴェーシの一部はスロヴェーネやクリヴィチーとともにヴァリャーギを招聘した。ただしチューディやヴェーシの中にはキエフ・ルーシにまだ組み込まれていない勢力もあったものと考えられる。事実、歴代のノーヴゴロド公は何度かチューディ遠征をおこなっている。一部の年代記はメーリャもヴァリャーギ招聘に加わっていたとしているが、『原初年代記』も882年のオレーグの南征にメーリャが加わっていたとしている。907年のビザンティン遠征を最後に、メーリャも歴史から姿を消した。
 このように、オレーグの時代にその勢力は大きく拡大したものと思われる。特にキエフを含む南方を加えたことで、«キエフ・ルーシ» が名実ともに誕生したと言える。ただしそれは、『原初年代記』の記述を信じることができれば、の話である。

 オレーグの事績については、いくつもの不審がある。

 ひとつは、同じルーシの年代記によってオレーグの素性について言うことが異なる点である。
 『原初年代記』によると、オレーグはリューリクの親族であり、その遺児イーゴリを託されている。
 ヨアキーム年代記によると、オレーグはイーゴリの母エファンダの兄弟であり、しかも «ウルマン人» の公であった。ウルマン人とはノルマン人のことと考えられるから、少なくともヴァリャーギのある集団のボスであったということになろう。その意味では、ノーヴゴロドの公であったリューリクと同格であったということになるのかもしれない。いずれにせよ、そのような立場であれば、イーゴリを託されたのも不思議はない。
 以上、『原初年代記』とヨアキーム年代記は、言わば補完しあう形になると言える。ところがノーヴゴロド第一年代記によれば、リューリクが死んだ時点でイーゴリはもはや成年であり、ゆえに跡を継いだのはイーゴリである。オレーグはその軍司令官(つまり臣下)でしかない。

二年後、シネウスと弟トルヴォルが死に、リューリクひとりが兄弟たちの領土に権力を確立し、独りで統治し始めた。かれには息子が産まれ、イーゴリと名付けた。イーゴリは成長すると、賢く勇敢になった。かれには賢く勇敢なオレーグという軍司令官がいた。(かれらは)戦いを始め、ドニェプル河とスモレンスク市に向かった……。

このように、厳密にはリューリクが死んだ時点でイーゴリが成年であったかどうかは明確ではないが、少なくともオレーグがリューリクの跡を継いだわけではない、という点は確実である。オレーグはあくまでもイーゴリの部下である。当然、キエフを征服したのもオレーグではなくイーゴリであったとされている。

 第二が、編年の作為性である。すなわち、882年にポリャーネ(キエフ)、883年にドレヴリャーネ、884年にセヴェリャーネ、885年にラディーミチと、毎年一部族づつ屈服させていった規則性。さらに885年から907年まで22年間の空白(903年は特段の事績でもない。またイーゴリにも21年間の空白がある)。何より、その治世が33年間とされている点(イーゴリの治世も33年間)。しかもかれの死が、コンスタンティノープル遠征であいまみえた皇帝レオン6世と同じ年とされている点(イーゴリの死も、コンスタンティノープル遠征であいまみえた皇帝ロマノス・ラカペノスの廃位と同年)。
 このように、オレーグとイーゴリには奇妙な共通点が多く、おそらくセットで編年が操作されたのだろうと推測される。
 もうひとつ、『原初年代記』はオレーグが912年に死んだとしているが、ノーヴゴロド第一年代記によればオレーグは(イーゴリの部下として)922年にコンスタンティノープル侵攻を指揮している。10年も前に死んだはずの人間が、である。922年のルーシの侵攻をビザンティン系史料は伝えていないので、これはどう考えてもノーヴゴロド第一年代記のでっち上げである。しかしいずれにしても、ノーヴゴロド第一年代記には、『原初年代記』と異なり、オレーグが912年以降も生きていた、との説が伝わっていたということであろう。

 第三が、907年のコンスタンティノープル遠征にせよ911年の通商条約にせよ、ビザンティン側史料では一切言及されていない点である。ちなみにビザンティン側の史料には、944年の条約も言及されていない。それどころか、ルーシのコンスタンティノープル襲撃も860年、941年、1043年の3回しかなかったことになっている。この一方で、バシレイオス1世(867-886)がルーシと協定を結んだことが記録されている。前後の文脈からして877年以前のことであり、オレーグではなくアスコリドディールの時代のことだろう。
 このように、そもそも907年のコンスタンティノープル遠征とその後の講和条約、911年の通商条約は、後世のでっち上げである可能性もある。
 907年のコンスタンティノープル遠征は架空の出来事だったのだろうか。これについては、『アマストリスのゲオルギオスの生涯』なる聖者伝がひとつの示唆を与えてくれる。アマストリスとはパフラゴニアにある黒海沿岸の都市であり、ビザンティン帝国の地方都市である。ここをルーシが襲撃したことが、この聖者伝には記されている。しかもルーシはマルマラ海を襲撃した後でアマストリスに来たようで、であるならばルーシはまずコンスタンティノープルを襲撃したことになる。問題はこれがいつのことかだが、ルーシのコンスタンティノープル襲撃と言えば860年である。ところが伝統的にこの聖者伝の作者とみなされるイグナティオスは850年より前には死んでいると思われる。また聖者伝にはイコンについて一切言及されていないが、ビザンティン帝国におけるイコノクラスム(反イコン政策)は842年まで続いている。学者の中には、ベルタン年代記に登場するふたりのルーシは、アマストリス襲撃後の講和使節としてコンスタンティノープルを訪問していたのだと考える者もある(ベルタン年代記は、839年にふたりのルーシがビザンティン使節とともにフランク帝国を訪問したことを伝えている)。とするならばアマストリス襲撃は839年以前ということになる。いずれにせよ、アマストリス襲撃以前にルーシがコンスタンティノープルを襲撃していたとして、これが860年以前に起こった出来事であったとすれば、ビザンティンの史料はこの出来事を書き漏らしたということになる。907年のコンスタンティノープル遠征にしても、同じように書き漏らされた可能性は否定できない。ましてそれが、『原初年代記』の伝えるような大規模なものでなかったり、あるいはコンスタンティノープルそのものではなくその近郊への襲撃にとどまっていたりすれば、なおさらである。
 条約については、次のような興味深い点が見られる。すなわち『原初年代記』によると、907年、コンスタンティノープルにて皇帝レオンとアレクサンドロスと講和条約を結んだ際、ふたりの皇帝が十字架にかけて誓ったのに対して、オレーグはペルーンとヴォーロスに誓っている。これが事実だとすると、早くもオレーグは父祖の神々を棄ててスラヴ人の神を信じていたということになる。
 またこの講和条約の交渉にオレーグが派遣したのは、カール Karl、ファルラフ Farlaf、ヴェルムード Vermud (ヴェレムード Veremud)、ルラヴ Rulav、ステミード Stemid であり、さらに911年の通商条約の交渉に派遣されたのは、かれらに加えてイネゲルド Inegeld、グード Gud、ルアルド Ruald、カルン Karn、フレラヴ Frelav、ルアル Ruar、アクテヴ Aktevu、トルアン Truan、リドゥル Lidul、フォスト Fost といった面々であった。いずれも、スラヴ語っぽくない。それどころか、カールだのイネゲルドだのルアルドだの、どう考えてもゲルマン語である。おそらく、かれらすべて(あるいはほとんど)がヴァリャーギであろう。かれらがスカンディナヴィアで生まれ育ったヴァリャーギなのか、それともノーヴゴロドなりキエフなり、東スラヴ人の地で生まれ育ったヴァリャーギなのかはわからないが、少なくとも名前の上からは、依然として支配階層の大部分(すべて?)がヴァリャーギであったことが窺われる。
 このような点は、後世のでっち上げとは考えにくい。最初の神について言えば、もしこの条約がでっち上げであればでっち上げたのはキリスト教の聖職者でしかあり得ない(文字の読み書きができたのはかれらだけである)。キリスト教の聖職者が、たとえまだ異教時代のこととはいえ、否定すべき邪神をでっち上げに加えるだろうか。かれらにゲルマン語の知見があったとも思えないから、使節の名前もでっち上げとは考えづらい。
 このように考えると、あるいはこれらの条約が結ばれたのは907年と911年ではなかったかもしれないが、条約そのものは存在していたのではないだろうか。ちなみにこのふたつの条約が実在のものであるならば、ギリシャ語で書かれていたはずだ。東スラヴ語はまだ文字を持たなかったし、古ノルド語のルーン文字を後世の聖職者が読めたとは思えない。

 第四が、ハザール、ペチェネーギ、ヴォルガ・ブルガールの不在である。ただしこれはオレーグの治世に限ったことではなく、『原初年代記』全体について言えることだ。
 ポリャーネ以下南方の諸部族は元来ハザールに貢納していた(これについては『原初年代記』も述べている)。それをオレーグが奪ったのだから、オレーグとハザールとの間に軋轢が生じたはずだが、ハザールは何の反応もしていない。

ハザールは(少なくともその支配層の中核は)テュルク系民族。故地や起源は不明だが、6世紀には北カフカーズから南ロシアにいて西突厥に従属していた。7世紀に入り、西突厥の弱体化に伴って自立。周辺の諸民族を支配下に置いて大帝国を築いた。ただしその領域がこんにちのロシアやウクライナのどの辺りにまで及んでいたかはよくわからない。『原初年代記』によればポリャーネやセヴェリャーネがハザールに貢納していたらしいし、学者の中にはキエフはそもそもハザールの都市であったとするものもある。

 ペチェネーギはそのハザールを弱体化させた張本人だが、すでに895年頃(『原初年代記』では897-898)にはハンガリー部族連合を追って南ウクライナの支配者となっており、コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスによれば(950年頃の叙述だが)、ルーシはペチェネーギの動向に戦々恐々としており、ほとんどその従属国のごとくだが、『原初年代記』ではまったく存在感がない。

ペチェネーギはまたルーシの近隣にて隣接している。かれらが互いに平和状態にない場合には、かれらはルーシを略奪し、甚だしい害悪をもたらし、損害を与える。ルーシはペチェネーギと平和を保つことに腐心している。と言うのもかれらはかれらから牛、馬、羊を買い、これにより生活もより容易に、豊かになるからだ。ルーシには上述の動物はひとつも棲息しないのである。遠く離れた地の敵に対して、ペチェネーギと平和状態になければルーシはそもそも向かうことができない。ルーシが遠ざかった時、ペチェネーギはそのすべてを一掃し破壊することができるからである。故にルーシは常に特別に腐心してかれらから害を受けぬよう、かれらを同盟に引き付け、その助力を得るようにしている。かれらと敵対せぬため、その助力を利用するためである。
 ローマ人(ビザンティン)の都市には、ルーシはペチェネーギと平和状態にない限り、戦のためであろうと通商のためであろうと、現れることができない。ルーシが舟で早瀬をやってきても、それを避けて、河から舟を揚げて肩に担いで渡ることができないからだ。ペチェネーギはかれらに襲いかかり、ルーシもふたつ事を両立することができないので、容易に勝利して虐殺を敢行するだろう。

ペチェネーギは(少なくともその中核は)テュルク系民族。9世紀に入って、東から玉突きで圧迫されてウラル河を越えてヨーロッパに入った。そこで(厳密にどこかは不明)先住のマジャール人(ハンガリー部族連合)を西に追ったが、9世紀末にはさらに南ウクライナからもハンガリー部族連合を追って南ウクライナの支配者となった。この頃まではハザールに従属ないし圧迫される存在だったが、10世紀に入ると立場を逆転させたようだ。

 さらにイスラーム系史料によればルーシはヴォルガ・ブルガールと活発に交流していたようだが、『原初年代記』に登場するブルガリアという言葉は一部を除いてすべてドナウ・ブルガールを指している。ヴォルガ・ブルガールなどルーシとは無縁な存在であったかのごとくである。

かれら(ルーシ)はスラヴ人を襲う。かれらに舟で近づき、上陸すると捕虜として、ハザラン(ハザールの首都イティルの一部)やブルカル(ヴォルガ・ブルガールの首都)に連れていってそこで売り払う。(イブン・ルスタ『高価なるものの書』900?/930?)
(イブン・ファドラーンは921-922年に自らヴォルガ・ブルガールの首都ボルガルを訪れ、そこで出会ったルーシ商人について詳細に書き残している)
かれら(ルーシ)の商人はブルガールの王のもとに出入りしている。(アル=マスーディ『黄金の牧場と宝石の鉱山』947)

ブルガールは(少なくともその中核は)テュルク系民族。すでに2世紀にはロシア・ウクライナ・ステップにいたとされるが、フン、アヴァール、西突厥などの従属下にあり、7世紀になって西突厥の弱体化に乗じて自立。ドナウ河口部から北カフカーズにいたる大帝国を築いた。しかしこれはすぐにハザールの圧迫で崩壊。一部は北に移住し、8世紀になってヴォルガ中流域に至った(ヴォルガ・ブルガール)。別の一部は西に移住し、7世紀末にドナウ下流域に至った(ドナウ・ブルガール)。

 1200年前後に書かれたと見られる『Gesta Hungarorum(ハンガリー人の事績)』には、次のような記述がある。直接引用すると長ったらしくなるので、要旨のみ。

884年、ハンガリー部族連合は公アールモシュの指揮下、西進を始め、ルーシの地に入り、スーズダリを通過した。キエフを通過するに際して、これを奪取しようとしたが、これに対してルーシの諸公も対抗してポーロフツィの諸公の支援を得て、両者はキエフ郊外で激突した。結果、ルーシとポーロフツィの連合軍は敗北し、アールモシュに和を乞うた。多大の贈り物や人質を差し出したルーシの諸公は、アールモシュにパンノニアに赴くよう勧めた。これを受け入れたアールモシュは、同行を望んだポーロフツィの諸公も従え、ロドメルとガリツィアでも当地の公に歓待を受け、パンノニアへと入った。

ハンガリー部族連合とは、マジャール人を中心とした諸部族の連合体で、こんにちのハンガリー人の祖。もともとはウラル地方にいたが、その後(おそらく)南ロシアを経て南ウクライナに移住し、さらにそこからカルパティア山脈を越えてパンノニアに遷った。
 アールモシュはハンガリー部族連合の長。コンスタンティノス・ポルフュロゲネトスによれば、ハザールの肝いりで長に選ばれた。
 ポーロフツィは(少なくともその中核は)テュルク系民族。キプチャクとも、クマンとも呼ばれるが、その関係は複雑(キプチャクの西部がポーロフツィ=クマンとされることがある)。故地は不明だが、東西突厥崩壊後のカザフスタンに登場。キマク、オグズ、タタールなどと共存していたが、徐々に西カザフスタンにおける覇権を確立。11世紀に入ると西進を開始。1055年に初めてルーシと接触した。884年時点は、西カザフスタンに覇権を確立した頃か。
 ロドメル Lodomer とはロドメリア Lodomeria のことであるが、これはヴラディーミルがラテン語に訛ったものであり、すなわちヴォルィニを指す。ガリツィア Galicia とは言うまでもなくガーリチがラテン語に訛ったもの。

 マジャール人が、その故地であるウラル地方から移住を開始したのがいつか、その後どのような経路を辿ったかは不明だが、少なくとも9世紀には南ウクライナにいた。おそらくハザールに従属していたものと思われる。895年頃、かれらはカルパティア山脈を越えてパンノニアに移住した。『原初年代記』も6406年(897-898)のこととして、ハンガリー人がキエフ近郊を通過してカルパティアを越えたことを伝えている。しかし、キエフが襲われたとか、時のキエフ公がこれに敗北して人質まで出したなどということは一言も述べられていない。ましてヴォルィニとガーリチに独自の公がいたとか、スーズダリなどという都市があったとか、当時まだ中央アジアにいたはずのポーロフツィがルーシ諸公と同盟しているとか(ポーロフツィに先立つペチェネーギとすらオレーグは関係を持っていなかったと言うのに)、どう考えても実際の9世紀末の状況ではなく『Gesta Hungarorum』の書かれた1200年頃の状況を反映している。とは言っても、ハンガリー部族連合が9世紀には南ウクライナで大きな勢力であったのは確かだろうと考えられる。これまた『原初年代記』にて欠けている要素のひとつである。
 このように、『原初年代記』、さらにはその他の年代記も含めて、ルーシの古記録には、スヴャトスラーフ以前の時代における南方・東方の諸民族とルーシ(ヴァリャーギであれ東スラヴ人であれ)との交流が一切欠落している。

 これら不審点を根拠に、『原初年代記』もこの辺りの記述は作り話だとして、さらにはオレーグの存在自体も否定する説がある。

 1217年頃書かれたイブン・イスファンディヤルの『タバリスタンの歴史』には、次のような記述がある。

この年(909-910)、ルーシに属する16艘の舟が海に現れ、アバスクンに襲いきたった。ハサン・イブン・ザイドの時(860s-884)にもルーシはアバスクンに襲来したが、ハサン・イブン・ザイドが軍を派遣してルーシすべてを皆殺しにした。この時は、16艘が出現し、アバスクンと周辺の海岸を破壊して略奪した。多数のムスリムが殺され、略奪された。アブール・ザルガム・アフマド・イブン・アル=カーシムは、サリの支配者だったが、アブール・アッバースに書き送り、援軍を要請した。ルーシはこんにちカレと呼ばれるアンジレに上陸した。かれは夜陰に乗じてかれらを襲い、多数を殺して捕虜とし、タバリスタンに向かった。翌年ルーシは多数で押し寄せ、サリとピャンジャフ・ハザラを焼き払い、人々を捕虜にして連れ去ると、大急ぎで沖合いに去っていった。デイレマンのチャシュム=ルドに至ると、一部は上陸し、一部は海に残った。ギランの人々は夜陰に乗じて海岸に現れると、舟を焼き払って陸に揚がっていた者どもを殺した。海にとどまっていた者どもは逃亡した。シルヴァンシャーはこの情報を得ると、海に伏兵を配置し、結果としてだれひとり生き残らなかった。このためルーシの頻繁な出現はこの地方では一時的にやんだ。

わかりやすく単純化すると、カスピ海南岸のイラン領に、東からアバスクン、サリ、デイレマン、ギラン。これすべてをタバリスタンと呼ぶ。ただし狭義には、サリ周辺。
 アバスクンは、カスピ海南東岸にあった商港。
 ハサン・イブン・ザイドは、9世紀から10世紀にかけてタバリスタンを支配したザイド朝の創始者。
 アブール・ザルガム・アフマド・イブン・アル=カーシムについては不明。
 サリはタバリスタンの中心都市だが、若干内陸にある。
 アブール・アッバースは、サーマーン朝の官僚。当時、一時的にザイド朝に代わってタバリスタンの支配者となっていた。
 カレ(アンジレ)、およびピャンジャフ・ハザラは、正確な名はよくわからないが、サリ北方にある集落。
 デイレマンはこんにちのデイラム。カスピ海南西岸地方。
 チャシュム=ルドは、デイラム地方を流れる川。
 ギランは、デイラム地方の北方にあるカスピ海南西岸地域。その内陸部がイラン領アゼルバイジャン、北方が独立国アゼルバイジャンになる。
 シルヴァンシャーは、独立国アゼルバイジャンにあるシルヴァン地方の君主の称号。

時期的には完全にオレーグの治世ということになるが、言うまでもなく『原初年代記』はおろかルーシのいかなる年代記もこの出来事を伝えていない。それどころか、この時期に限らずいついかなる時期においても、ルーシがカスピ海沿岸部を襲撃したとの記録を残していない。
 『タバリスタンの歴史』が書かれたのはかなり後世であるので、必ずしもその記述は信頼できないかもしれないが、ルーシがカスピ海沿岸部を襲撃したとのイスラーム系の史料はこれだけではない。アル=マスーディはヒジュラ紀元300年(912-913)にルーシがタバリスタンを襲撃したと伝えている。さらにイブン・ミスカワイフの次のような記述もある(全文は長すぎるので要約のみ)。

332年(943-944)。この年、アッ=ルシヤの名で知られる民族の軍がアゼルバイジャンにやって来て、バルダに向かい、ここを占領して住人を捕虜とした。
 (以下、概要をかいつまんで述べると)
 「アッ=ルシヤは自国に隣接する海を渡り、クラ河に至った。サラル朝のマルズバン・イブン・ムハンマドが迎撃したが敗北し、バルダはアッ=ルシヤに占領された。アッ=ルシヤは住人に信仰の自由を認める一方、服従を要求。城塞の防備を固めた。しかし反発する住民が蜂起すると、アッ=ルシヤは多数の住民を虐殺し、その財産を奪った。マルズバン・イブン・ムハンマドは偽りの退却でアッ=ルシヤをおびき寄せると、伏兵でかれらを打ち破り、その首領を殺した。アッ=ルシヤはバルダに立てこもり、他方でマルズバン・イブン・ムハンマドは、アゼルバイジャンの平定に乗り出したハムダン朝に対抗するためバルダ攻囲を部下に委ねて南方に去った。この間、アッ=ルシヤの間に疫病が流行り、人数を減らしたアッ=ルシヤは、運べる限りの財宝、女、子供を連れてバルダを去った。」

バルダは、こんにちのアゼルバイジャンのちょうどど真ん中辺りに位置する内陸都市。
 クラ河は、アゼルバイジャンを北西から南東へと斜めに横切りカスピ海に注ぐ、アゼルバイジャン最大の大河。その支流テルテル河の河畔にバルダはある。
 サラル朝とは、ペルシャの中央権力の弱体化に乗じてアゼルバイジャン地方(南アゼルバイジャンも含む)の権力を握った一族。10世紀前半に権力を握り、マルズバン・イブン・ムハンマドの時代に全盛期を迎えたが、その死後は一族間の内紛が続き、早くも10世紀後半には周辺のアルメニア、ブワイフ朝、シャッダード朝、ラワド朝などに圧迫され、11世紀前半までには歴史から姿を消した。
 マルズバン・イブン・ムハンマドは、サラル朝の全盛期にアゼルバイジャンを支配した君主。
 ハムダン朝とは、モスルとアレッポを拠点にイラク北部やシリア北部を支配した地方政権。

イブン・ミスカワイフは、マルズバン・イブン・ムハンマドやその他の従軍兵から話を直に聞いているようで、かれらの誇張や自己弁護などの要素を考慮しても、非常に信頼度の高い記録であると言える。もちろん、「ルーシが自国に隣接する海を渡ってクラ河に至った」などという記述は信じられない。クラ河に至ることのできる海はカスピ海だけだが、当時、カスピ海北岸にはハザール帝国が健在で、ルーシはその王の許可をもらってヴォルガを下っていたのである。しかしその一方で、ルーシが数千人という大所帯でやって来たこと(イブン・ミスカワイフ自身は数字を書き記していないが、行間から推測できる)、しかもバルダに居座る(おそらくは移住する)つもりであったこと、その首領が戦死したこと(とはいえこれはマルズバン・イブン・ムハンマドの言葉として記されているので、かれのはったりと見ることもできる)、等は信じられると思う。
 このような、カスピ海方面におけるルーシの活動もまた、ルーシの史料から完全に欠落している要素のひとつである。この点を考察していくといろいろ興味深いが、ここではオレーグに関連して次の史料を挙げよう。ケインブリッジ文書と呼ばれる史料である(シェフター文書とも)。

王ヨセフ、我が主の治世に、悪党ロマノスの治世に追放があった時のこと。このことが我が主に……、かれ(ヨセフ)は多くの割礼を受けておらぬ者(非ユダヤ教徒)を追放した。ロマノスは多大の贈り物をルシヤの王 HLGW に(贈り)、かれ(HLGW)をかれ(ヨセフ)の災厄へと唆した。こうしてかれ(HLGW)は SMKR を夜襲し、ここに長官ラブ=ハシュモナイがいなかったため、強盗のようにこれを奪った。これは BWLSCJ、すなわち尊敬すべきペサフの知れるところとなり、かれ(ペサフ)は怒ってロマノスの都市を襲い、男や女を殺した。かれ(ペサフ)は、数多くの従属都市を除いて3つの大都市を奪った。ここからかれ(ペサフ)はシュルシュンに向かい……かれ(ロマノス?)と戦った……。かれら(シュルシュン市民)は虫けらのように国から出ていった……。そのうち90人が死んだ……。しかしかれ(ペサフ)はかれらに貢納を納めることを強いた。そしてルスの手(から)……救い、すべての(そこに)いた者たちを……。ここからかれ(ペサフ)は HLGW との戦いに向かい……、数ヶ月、そして神がかれ(HLGW)をペサフに屈服せしめた。そしてかれ(ペサフ)は、かれ(HLGW)が SMKR から奪った戦利品を見つけた。かれ(HLGW)は言った「ロマノスが我を唆したのだ」と。ペサフはかれに言った。「もしそうなら、ロマノスのもとへ行き、我と戦ったようにかれと戦え。さすれば我も汝から引き下がろう。さなくば我はこの場で死ぬか、復讐を果たすまで生き続けるだろう」。こうしてかれ(HLGW)は意に反して赴き、4ヶ月にわたりコンスタンティノープルと海で戦った。そこでかれ(HLGW)の戦士たちは斃れたが、と言うのもマケドニア人が火を使ったからである。かれ(HLGW)は逃げ、祖国に戻ることを恥じて、海路ペルシャに赴いた。そこでかれ(HLGW)とかれの軍勢すべては客死した。こうしてルスはハザールに従属した。

ロマノスとはロマノス・ラカペノス(870?-948)。ビザンティン皇帝(920-944)。その治世にビザンティン帝国でユダヤ人追放があったのは、ヒジュラ紀元332年(943-944)。
 ヨセフとは、ハザールの王。その治世は不明だが、おおよそ940年代初頭から960年代までと考えられる。前者はこの記事から推測される。後者については、ヨセフ自身がコルドバのアブド・アッ=ラフマーンの廷臣であったユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルートに出した書簡から推測される(アブド・アッ=ラフマーンの治世は961年まで)。すなわち、スヴャトスラーフが965年ないし968-969年にハザールを滅ぼした時の王が、このヨセフ自身であった可能性がある。
 ちなみにハザール帝国はユダヤ教を国教としていた。ゆえにロマノスのユダヤ人追放に激怒し、キリスト教徒を国内から追放したのである。

 以上、要約すると次のようになる。
 「943-944年、皇帝ロマノス・ラカペノスがユダヤ人を追放した。これに怒ったハザール王ヨセフが、国内のキリスト教徒を追放した。これに対してロマノス・ラカペノスは、ルシヤの王 HLGW を唆してハザールを攻撃させた。HLGW は SMKR と呼ばれるハザールの都市(?)を攻撃したが、これに対してハザールの将軍ペサフが、ビザンティンの都市(?)シュルシュン(ケルソネソス?)を攻撃。さらに HLGW を攻撃し、SMKR から奪われた戦利品を取り返した。さらに HLGW に、ビザンティンを攻撃させた。HLGW は4ヶ月にわたりコンスタンティノープルを攻撃したが、ギリシャの火に敗退。ペルシャに逃亡し、そこで客死し、ルーシはハザールに従属した。」
 著者はハザール王ヨセフの臣下であり、当然執筆時期はこの出来事以降、どんなに遅くとも968-969年(ハザールの滅亡)まで、ということになろう。つまり、上記の出来事を自身で体験している可能性が高い。
 注目すべきは、イブン・ミスカワイフもケインブリッジ文書も、ともにヒジュラ紀元332年(943-944)にルーシがアゼルバイジャン(ペルシャの一部)を襲撃し、その首領が戦死したことを伝えている点である。微妙な食い違いもあるものの、これらは同一の出来事と見ていいのではないだろうか。
 ケインブリッジ文書で「ルシヤの王」とされる HLGW は、イブン・ミスカワイフが伝える「マルズバン・イブン・ムハンマドとの戦いで戦死した首領」のことであろう。文字からすると、HLGW は Helgi、すなわちオレーグと解釈することができる。ところが、言うまでもなく、オレーグはヒジュラ紀元332年(943-944)の30年も前に死んでいるはずである。
 可能性はいくつかある。

  1. HLGW はオレーグのことである
    1. ケインブリッジ文書の記述が間違いで、この出来事は912年以前に起きた
      1. ケインブリッジ文書とイブン・ミスカワイフは同一事件を伝えている(ゆえにイブン・ミスカワイフも間違えている)
      2. ケインブリッジ文書とイブン・ミスカワイフは無関係(「戦死した首領」は誰か?)
    2. 『原初年代記』の記述が間違いで、オレーグは943-944に死んだ
  2. HLGW はオレーグとは同名の別人である
    1. HLGW はイーゴリの部下である(なのになぜルーシの王とされているのか?)
    2. HLGW の君臨したルーシはキエフ・ルーシではない(ルーシは複数存在した)
  3. HLGW はイーゴリのことである(なのになぜ HLGW と表記されているのか? いつ死んだのか?)

 1-2、即ち『原初年代記』の記述が間違いで、オレーグは943-944に死んだ、とする説に立ち、イーゴリの治世は実はわずか1年程度しかなかったと主張する説がある。だからこそ『原初年代記』のイーゴリの記述には21年間もの空白があるのだ、と言うのだが、それを言えばオレーグにも22年間の空白があるのだから、根拠にはならない。
 2-2、即ちオレーグやイーゴリの支配するキエフ・ルーシとは別に、HLGW の支配する «第二のルーシ» が存在した、とする説もある。アル=イスタフリが951年に書いた『地理誌』には、次のような記述がある。

ルーシには3種類ある。一種は、ブルガールに近く、その王はクヤバと呼ばれる都市に住している。クヤバはブルガールよりも大きい。最も離れた種はサラヴィヤと呼ばれる。また(第3の)種はアルサニヤと呼ばれ、その王はアルサに住する。人々はクヤバに交易に訪れる。アルサについて言うと、異邦人にしてここに立ち入った者について言及されることはない。と言うのも、外国から自分たちの土地に立ち入る者をみな殺してしまうからである。そして交易のために水路を移動し、自分たちのことについては誰にも語らず、同行することも許さず、その国に立ち入らせない。アルサからはクロテンや錫がもたらされる。

 «クヤバ» はどう考えてもキエフであろう。だとすると、ここで言うブルガールとはヴォルガ・ブルガールではなくドナウ・ブルガールかもしれない。«サラヴィヤ» は、この地理誌をアル=イスタフリ自身の要請により校正したイブン・ハウカルによれば «スラヴィヤ» と書かれているが、どう考えてもスラヴである。となると、ロシア語でスラヴ人 славяне と同語源のスロヴェーネ словене のことではないだろうか。即ち、ノーヴゴロドである。それでは «アルサ» とは何であろうか。これについては諸説あるが、つまりこれこそが HLGW の支配する «第二のルーシ» だったのではないだろうか。この «アルサ・ルーシ» こそが、『原初年代記』では無視されていたハザールやブルガール(ヴォルガ・ブルガール)、ペチェネーギなどと密接な関係を持ち、何度もカスピ海にまで遠征したルーシだったのではないだろうか。
 この問題については、ここではこれ以上掘り下げない。ここで扱うには話が大きすぎるからである。
 いずれにせよ、オレーグの時代のルーシについては情報が乏しく、しかもそれらが錯綜しているため、その実態の把握が非常に困難である。オレーグという個人が実在したか否か、実在したとしたらどのような人物だったのか、その支配領域はどのようなものだったのか、といった点も、当時のルーシの実態と密接に関連するため、簡単には答えが出せない。

 『原初年代記』は、オレーグが蛇に咬まれて死んだと伝えている。しかしノーヴゴロド第一年代記は、オレーグがラードガに去ったとしている(異説として海の彼方に去って蛇に咬まれたと伝える)。『原初年代記』はオレーグがシチェコヴィツァ(キイの弟シチェクが住んでいた山)に葬られたとしているが、ノーヴゴロド第一年代記はラードガにかれの墓があるとしている。

 ちなみに、おもしろいことに気づいた。

古代ルーシ古代日本
ノーヴゴロドがキエフを征服し、征服されたキエフが統一政権の中心に筑紫が大和を征服し、征服された大和が統一政権の中心に
ノーヴゴロドの支配者リューリクは海の彼方のヴァリャーギ筑紫の支配者瓊瓊杵尊は天孫
リューリクの親族オレーグ、息子イーゴリがキエフ征服の主役瓊瓊杵尊の子孫神日本磐余彦尊(神武天皇)が大和征服の主役
オレーグ & イーゴリはノーヴゴロドを出た後、キエフに直行していない(キエフが目的地ではない)神武は筑紫を出た後、大和に直行していない(大和が目的地ではない)
オレーグ & イーゴリはキエフを奪うに際して、公である自分に正統性があることを主張神武は大和を奪うに際して、天孫である自分に正統性があることを主張
オレーグ & イーゴリはアスコリド & ディールをだまし討ち神武は長髄彦をだまし討ち(記紀で伝承に微妙に相違)

 添え名の «ヴェーシチイ» は聡明さを示す言葉で、特に「予見の才のある」といった意味合いを持つ。

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最終更新日 06 09 2013

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