リューリク家人名録

アンナ・ヤロスラーヴナ

Анна Ярославна, Anne de Kiev

公女 княжна
フランス王妃 reine de France (1051-60)

生:?
没:?

父:キエフ大公ヤロスラーフ賢公 (キエフ大公ヴラディーミル偉大公
母:インゲゲルド (スウェーデン王オロフ課税王)

結婚①:1051−ランス(フランス)
  & フランス王アンリ1世 1009-60

結婚②:1062
  & ヴァロワ伯・クレピ伯ラウール3世・ド・ペロンヌ -1074

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
アンリ1世と
1フィリップ1052-1108フランス王ベルト1055-93ホラント伯フローリス1世
ベルトラード1070-1117モンフォール伯シモン1世
2ロベール1054-60
3エマ1055-1109
4ユーグ1057-1102ヴェルマンドワ伯アデライードヴェルマンドワ伯エルベール4世

第6世代。ヤロスラーフ賢公の三女(?)。

 キリスト教会は近親婚を嫌うあまり、時に結婚できない血縁関係を極端に広く捉える。11世紀のカトリック教会は、7親等以内の結婚は許可していなかった。もっとも、たいていは土地を寄進したり、教会や修道院を建てることで従兄弟同士(4親等)ですら結婚が許される。
 しかし歳若いフランス王アンリ1世は、真面目だったのか、それとも時の教皇に嫌われてでもいたのか、結婚相手を見つけるのに苦労した。1034年に婚約者マティルダが死ぬと、「婚約も婚姻とみなす」、「配偶者(婚約者)の血縁も実の血縁に等しい」という教会の見解により、アンリが結婚できる王族はほぼ皆無になった。ようやく1043年にフリース人(オランダの先住民)の首長の娘と結婚したが、彼女も翌年には死去。結局、王となってから20年以上、40歳を過ぎてもアンリは独り身で、子供もなく、フランス王家は断絶の危機に直面していた。
 そんなかれのもとにもたらされた朗報が、遥か遠く東の果てに、ひとりの見目麗しいプリンセスがいるという報せだった。こうして1051年、アンリはようやく花嫁を見つけた。この花嫁が、アンナである。

 兄弟姉妹の中で、アンナ・ヤロスラーヴナの生年がもっともよくわからない。おおまかに、1024年、32年、36年の3説がある。1024年説ではアンナは3人姉妹の真ん中と考えられる。残る2説に従えば末娘ということになる。

 アナスタシーヤの夫アンドラーシュも、エリザヴェータの夫ハーラルも、ともに一時キエフに亡命しており、おそらくその時期に、当時キエフで話されていた言葉(現代のロシア語ではない)を覚えたことだろう。そうでなくとも、ハンガリーもノルウェーもルーシとは関係の深い国々である。
 これに対してフランスとは、それまでルーシは何ら関係を持ったことがない。アンナがフランス語など話せたはずもなく、ましてやフランス人がロシア語を話せたはずもなく、風習から何からまるで異なる地で暮らすことになるアンナとしても、心細かったことと想像される。
 なお、フランスでは «アニェス» と呼ばれることもある(ただしアニェスとは英語のアグネスに相当し、アンナとは全く異なる名)。

 アンリが既に高齢だったこともあり、アンヌがフランス王妃であった期間は短かった。1060年には夫アンリが死去。
 アンリ死後、後を継いだ長男フィリップ1世がまだ若年だったこともあり、アンヌはしばらく政務に参画したという。
 1062年、ラウールと再婚。まだ10歳の息子を放って、しかも妻子持ちのラウールと結婚したことで、アンヌは世論の激しい反発を招き、またふたりはローマ教皇から破門された。しかしふたりはおかまいなしに、ヴァロワの領地で暮らしたらしい。
 その後、アンヌは修道院で生涯を閉じたとも、キエフに帰ったとも言われ、詳細は不明。もっとも、アンヌが帰国したとすればルーシの年代記にそれらしい記述が残っていてもいいと思うのだが、そんなものはない。パリ近郊のサンリスを愛していたと言われ、ふたり目の夫の死後はその修道院に入ったとする説もあるが、そんなところではないだろうか(ちなみにサンリスには彼女の銅像が立っている)。
 1075年付けの彼女の署名入りの文書が残っているので、この時まで生存していたのは確からしい。1089年までには死んでいたものと考えられているが、具体的な年は不明。セルニ(フランス)のヴィリエ=オ=ノナン修道院に埋葬されたとも言われるが、この修道院は大革命で破壊され、何も残っていない。

 ちなみに、アンナ・ヤロスラーヴナを通じて、その後の全フランス王、マクシミリアン1世以降の全ハプスブルク家・神聖ローマ皇帝・スペイン王、エドワード3世以降の全イングランド王、ジェイムズ2世以降の全スコットランド王、その他、ヨーロッパ中の王家にリューリコヴィチの血が流れている。
 また、西欧の王族にフィリップというギリシャ語起源の名がもたらされたのはアンナ・ヤロスラーヴナによってである、と言われている。

 なお、(教養のある)ロシア人はなぜか誰もが「アンナ・ヤロスラーヴナがフランス王妃となった」という事実を知っている。

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