リューリク家人名録

ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチ

Владимир Константинович

ウーグリチ公 князь Углицкий (1238-49)

生:1214
没:1249.12.27

父:ロストーフ公コンスタンティーン賢公ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公
母:アガーフィヤ (スモレンスク公ムスティスラーフ老公

結婚:1232
  & ナデージュダ/エヴドキーヤ公女 -1278 (リャザニ公イングヴァーリ・イーゴレヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ナデージュダ・イングヴァーレヴナと
1アンドレイ-1261ウーグリチ
2ロマーン-1285ウーグリチ

第11世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。洗礼名ドミートリイ。コンスタンティーン賢公の三男(末男)。

 1218年(19年?)、父が死去。長兄ヴァシリコがロストーフを、次兄フセーヴォロドがヤロスラーヴリとウーグリチを継ぐ。
 ヴラディーミルがウーグリチを分領として与えられたのは、この時だとも、あるいはのち(一般的には1238年)のことだとも言われるが、兄たちもまだ幼かったことを考えると、ヴラディーミルだけ除け者にされた理由が見当たらない。やはり兄たち同様、1218年の時点でウーグリチを与えられたのではないだろうか。

 1230年、叔父のヴラディーミル大公ユーリイ・フセヴォローディチに従い、チェルニーゴフ遠征。

 1238年、兄たちとともに、ユーリイ・フセヴォローディチに従ってシーティ河畔でモンゴル軍を迎え撃つ。この戦いで叔父と次兄は戦死、長兄もモンゴル軍の捕虜となり、のち殺された。ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチは戦死を免れたとはいえ、どうやら分領を棄てて逃亡したらしい。
 ヴラディーミル大公には叔父のヤロスラーフ・フセヴォローディチが就任。ロストーフもヤロスラーヴリも、兄の遺児たちが継いだ。一説にはヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチはこの時ウーグリチを分領として獲得したともされる。

 1244年、ロストーフ系諸公を引き連れて(?)サライに伺候。この時点で、長兄の子ボリース・ヴァシリコヴィチはまだ13歳、次兄の子ヴァシーリイ・フセヴォローディチは15歳。ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチは叔父として、ロストーフ系一族の最年長者として、甥たちを率いていったということだろう。
 この時、ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチはバトゥから分領の保持を認めてもらった。しかし同時に、ボリース・ヴァシリコヴィチロストーフ公位を認めてもらっている。
 これまでのキエフ・ルーシの慣習からすると、コンスタンティーン賢公の息子の世代で唯一の生き残りであるヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチが、ロストーフも含めたコンスタンティーン賢公の分領すべてを相続してもおかしくない。少なくとも、中心都市であるロストーフは相続してしかるべきである。ところが実際には、ロストーフはボリース・ヴァシリコヴィチが、ヤロスラーヴリはヴァシーリイ・フセヴォローディチが継いでおり、ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチは最後までウーグリチのみを分領としていたらしい。唯一生き残った叔父として、後見人のつもりで分領を甥たちに譲ったのかもしれない。
 さらに言えば、1248年には叔父スヴャトスラーフ・フセヴォローディチに代わって従兄弟のアンドレイ・ヤロスラーヴィチヴラディーミル大公となっている。ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチの方が年長系であり、実際に年長であり、父もヴラディーミル大公になっていたからこれといった瑕はないはずで、これまでの慣習からするとヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチこそがヴラディーミル大公になってしかるべきである(もっともそれを言ったら、叔父から甥が大公位を奪うこと自体がおかしい)。にもかかわらず、ヴラディーミル・コンスタンティーノヴィチは終生ヴラディーミル大公にはなっていない(1248年の時点でアンドレイ・ヤロスラーヴィチが大公となったことに対してどんな反応をしたのかは不明)。
 もちろん、モンゴルという宗主の登場が慣習を破壊したという側面はあったにせよ、キエフ・ルーシの社会自体が大きく変化していたということなのだろう。

 ウーグリチに葬られている。

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