リューリク家人名録

ミハイール・グレーボヴィチ

Михаил Глебович

ベロオーゼロ公 князь Белозерский (1278-93)

生:1263.11
没:1293?

父:ベロオーゼロ公グレーブ・ヴァシリコヴィチロストーフ公ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチ
母:フェオドーラ・サルタコヴナ

結婚:1278
  & ? (ヤロスラーヴリ公フョードル黒公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ヤロスラーヴリ公女と
1フョードル-1314ベロオーゼロ
2ロマーン-1339ベロオーゼロ
?ヴァシーリイ

第13世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。

 1277年、父とともにサライへ。メング=ティムールの北カフカーズ遠征に従軍した。
 1278年、一旦父とともに故郷に帰還したが、再びサライに派遣される。その直後、父が死去。年代記の記述を素直に読むと、おそらくミハイール・グレーボヴィチは父の死に目に会えず、異郷の地で父の死を知ったものと思われる。おそらくそのままメング=ティムールからベロオーゼロの相続を認められたのだろう。1279年、モンゴルのヴォルガ・ブルガール遠征に従軍する。

 1279年、ロストーフ公ドミートリイ・ボリーソヴィチにベロオーゼロを奪われた。あるいはミハイール・グレーボヴィチは、まだヴォルガ・ブルガール遠征から帰還していなかったのかもしれない。もっとも、だとすればモンゴル軍を借りて分領を奪い返すことも可能だったろうから、すでに遠征から帰還してはいたのかもしれない。だとしても、モンゴルに泣きつくことも可能だったはずだが、それをした形跡もない。もっとも、その後ミハイール・グレーボヴィチがどこで何をしていたのか、年代記は何も伝えてくれない。
 どのようないきさつがあったのか、1286年、ベロオーゼロを返還された。この間の所在は不明。

 当時北東ルーシは、ヴラディーミル大公位を巡るドミートリイアンドレイのアレクサンドロヴィチ兄弟の内紛に揺れていた。ミハイール・グレーボヴィチは後者を支援して前者と対立。
 1292年、アンドレイ・アレクサンドロヴィチその他の諸公とともにサライへ。しかし当地で翌1293年に死んだらしい。いずれにせよ、その後二度とベロオーゼロに帰還することはなかった。

 ロストーフのウスペンスキイ大聖堂に埋葬されている。

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