コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ
Константин Васильевич
ロストーフ(=ボリソグレーブスキイ)公 князь Ростовский(-Борисоглебский) (1320-65)
生:?
没:1365−ウーステュグ
父:ロストーフ公ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチ (ロストーフ公コンスタンティーン・ボリーソヴィチ)
母:?
結婚:1328
& フェオドーシヤ or マリーヤ公女 -1365 (モスクワ公イヴァン1世・カリター)
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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マリーヤ・イヴァーノヴナと | ||||||
イヴァン | -1365 | |||||
グレーブ | -1365 | |||||
1 | ヴァシーリイ | -1375 | ||||
2 | アレクサンドル | -1404 | ||||
3 | ヴラディーミル | |||||
オリガ/アガーフィヤ | リウバルタス | 1300-83 | リトアニア大公ゲディミナス | |||
ヴァシリーサ | ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ | 1323-83 | スーズダリ大公 | |||
マリーヤ | -1390 | アンドレイ・イヴァーノヴィチ | 1327-53 | セールプホフ公 |
第15世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。
生年はよくわからないが、1312年としている文献がある。兄(?)のフョードル・ヴァシーリエヴィチの生年をタティーシチェフが1311年としていたらしいので、そこから出てきた数字かもしれない。
父は1316年以降に死んだが、正確な没年は不明。父の死後ロストーフは、従兄弟のウーグリチ公ユーリイ・アレクサンドロヴィチが継いだらしい。しかしそのユーリイ・アレクサンドロヴィチも、1320年に子なくして死んだ。ロストーフとウーグリチは、フョードルとコンスタンティーンのヴァシーリエヴィチ兄弟が相続した。
1328年は、時系列的な順序はわからないが、コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチにとっては重大な3つの出来事のあった年である。
第一に、ロストーフをフョードル・ヴァシーリエヴィチと分割した。この分割の結果ロストーフ公領がどうなったかよくわからないが、これは都市ロストーフ自体を二分割するものであったらしい。フョードルがスレテンスキイ(ウスレティンスキイ)側(西部)を、コンスタンティーンがボリソグレーブスキイ側(東部)を取った。以後、両系統がロストーフ公を名乗り続けるのでややこしい。
第二に、モスクワ公イヴァン・カリターがウーグリチ公領を買収した。都市ロストーフ自体を分割するという例外的な方法(唯一の例)を採った背景には、ウーグリチを失っていたこともあったのかもしれない。また、イヴァン・カリターはこの年ヴラディーミル大公位とノーヴゴロド公位を獲得しており、言わば権力の絶頂にあった。ウーグリチ公領の売却も、その権威に強要されたのか、それともヴァシーリエヴィチ兄弟が多かれ少なかれ自発的にしたのか、その辺りもよくわからない。
第三に、コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチはそのイヴァン・カリターの娘と結婚している。ただでさえ弱小なロストーフの、しかもその半分を領有するだけのコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチにとっては、これは非常に有利な結婚であったろう。とはいえ、両者の力の差は如何ともしがたく、徐々に義父の «臣下» と化していったと言えるだろう。やがてイヴァン・カリターの派遣してきた代官を受け入れ、実権を奪われたらしい。
1331年、兄フョードル・ヴァシーリエヴィチが死去。幼い遺児フョードルが残され、ウスレティンスキイ側はこの幼児が相続したのではないかと思われるが、年代記には姿を見せず、逆にコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチがロストーフ全体を統治していたかにも思える。
1340年、イヴァン・カリターの命令で、タタール軍に従軍してスモレンスク遠征。同年、セミョーン傲慢公に従いノーヴゴロド遠征。
1348年にはセミョーン傲慢公に派遣され、ノーヴゴロドを支援してスウェーデン軍と戦う。
1342年、サライに伺候。
モスクワ公への従属は、30年間続いた。
1359年、イヴァン赤公が死ぬと、後を継いでモスクワ公となったドミートリイ・ドンスコーイはまだ8歳の子供。しかもヴラディーミル大公位はスーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチに与えられた。
これに乗じてコンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチは1360年、自らサライに赴き、ハーンより全ロストーフ公領(当然ウーグリチ、ベロオーゼロ、ヤロスラーヴリ、及びその分領を除く)の支配を認める認可状を獲得した。
コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチは1361年、サライでハーンのヒズルが殺された時にも居合わせていた。滞在していたルーシ諸公は逃げ出したが、ロストーフ諸公が負傷したという記録もある。コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ以外のロストーフ系諸公がサライに詣でていたのだろうか。
コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチはハーンからもらった認可状を盾に、ウスレティンスキイ側半分を支配する甥アンドレイ・フョードロヴィチの領土を要求して対立。しかしモスクワがアンドレイ・フョードロヴィチを支持し(公は子供でも母后や側近が国を動かした)、コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチは1363年にはウーステュグへの逃亡を余儀なくされた。
黒死病で妻子とともに死去。ただし死んだのはウーステュグではなくロストーフだとする文献もある。甥と和解したのだろう。
ロストーフのウスペンスキイ大聖堂に埋葬されている。