リューリク家人名録

コンスタンティーン・ボリーソヴィチ

Константин Борисович

ロストーフ公 князь Ростовский (1286-88、94-1307)
ウーグリチ公 князь Углицкий (1289-94)

生:1255.07.30
没:1307−サライ

父:ロストーフ公ボリース・ヴァシリコヴィチロストーフ公ヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチ
母:マリーヤ (ムーロム公ヤロスラーフ・ユーリエヴィチ

結婚①:
  & ? -1299

結婚②:1302−サライ
  & ? (クトル・コルトカ)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
?ユーリイ・ダニイーロヴィチモスクワ公
1アレクサンドル1286-1302ウーグリチ
?ミハイール
2ヴァシーリイ1291-1316ロストーフ

第13世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。

 1277年、メング=ティムールの命令で、カフカーズ遠征に従軍するため、父や兄ドミートリイ・ボリーソヴィチとともにサライへ。しかし父はサライにて病死。コンスタンティーン・ボリーソヴィチは、叔父のベロオーゼロ公グレーブ・ヴァシリコヴィチとともに、そのままカフカーズに遠征。父の遺骸は、兄がロストーフに持ち帰った。
 1278年、ロストーフに帰国。ロストーフ公位はメング=ティムールによりグレーブ・ヴァシリコヴィチに与えられていたが、グレーブ・ヴァシリコヴィチは帰国直後に死去。ロストーフはボリーソヴィチ兄弟が共同で統治することになった。

 1279年、ドミートリイ・ボリーソヴィチは、従兄弟のベロオーゼロ公ミハイール・グレーボヴィチからベロオーゼロを奪う。
 いかなるいきさつがあったのかは不明だが、あるいはただ単にドミートリイ・ボリーソヴィチが欲望に駆られていただけなのかもしれない。それかあらぬか、1281年にはコンスタンティーン・ボリーソヴィチもドミートリイ・ボリーソヴィチによってロストーフを追われてしまった。
 コンスタンティーン・ボリーソヴィチはヴラディーミル大公ドミートリイ・アレクサンドロヴィチのもとに逃亡。しかしロストーフ主教イグナーティイがドミートリイ・アレクサンドロヴィチに仲裁を依頼し、ボリーソヴィチ兄弟は和解する。
 まさにこの1281年、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチも弟アンドレイ・アレクサンドロヴィチからヴラディーミル大公位を奪われることになる。他の北東ルーシ諸公と同じく、ボリーソヴィチ兄弟もアンドレイ・アレクサンドロヴィチを支援してドミートリイ・アレクサンドロヴィチと戦った。

 1285年、ウーグリチ公ロマーン・ヴラディーミロヴィチが子なくして死去。ウーグリチはロストーフ本領に併合された。
 これを受けて1286年、ボリーソヴィチ兄弟はロストーフ公領を分割。コンスタンティーン・ボリーソヴィチがロストーフを、ドミートリイ・ボリーソヴィチがウーグリチを領有することになった。
 1289年、領土を交換。
 なお、これには異説もある。一旦はコンスタンティーン・ボリーソヴィチが兄をロストーフからウーグリチに追ったが、3年後に逆襲され、今度はコンスタンティーン・ボリーソヴィチがウーグリチに逃げた、とする史書もある。

 1289年、ロストーフ市民がタタールに対して蜂起した際には、ロストーフを支配していた兄に代わってコンスタンティーン・ボリーソヴィチがサライに赴き、トゥラ=ブガに対して兄の代理人として弁解に努めたと言われる。
 もしこれが本当なら、領土分割にまつわる喧嘩話はウソなのか、あるいはその後和解したのか。
 もっとも、逆にコンスタンティーン・ボリーソヴィチは、自分がロストーフから追い出されたことを訴えに行ったのだとする史書もある。

 1292年には、アンドレイ・アレクサンドロヴィチに付き従い、兄を含む北東ルーシ諸公とともにサライに赴き、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチについての苦情をトフタに訴えている。翌年にはタタール軍とともに帰国し、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチをヴラディーミルから追った。

 1294年、兄が死去。コンスタンティーン・ボリーソヴィチがロストーフを相続(兄には息子がいなかった?)。ウーグリチには長男アレクサンドルを残した。
 この年、ドミートリイ・アレクサンドロヴィチも死去。遺児イヴァン・ドミートリエヴィチからペレヤスラーヴリ=ザレスキイを奪おうとするアンドレイ・アレクサンドロヴィチを、コンスタンティーン・ボリーソヴィチはヤロスラーヴリ公フョードル黒公とともに支持。イヴァン・ドミートリエヴィチを支援してアンドレイ・アレクサンドロヴィチと敵対するトヴェーリ公ミハイール・ヤロスラーヴィチモスクワ公ダニイール・アレクサンドロヴィチと対立した。1294年、兄の遺児ヴァシリーサがアンドレイ・アレクサンドロヴィチと結婚している。おそらく兄の死後にコンスタンティーン・ボリーソヴィチがあつらえたものだろう。
 フョードル黒公が1297年にスモレンスクを失い、1299年に死んで脱落した後も、1301年にドミートロフで会見した諸公が一応の講和を結んでも、コンスタンティーン・ボリーソヴィチはアンドレイ・アレクサンドロヴィチを支援し続けた。とはいえ、1297年には一時的な講和により、娘をモスクワ公の息子に嫁がせている。

 1302年、サライにて再婚したが、名前も素性もわかっていない。コンスタンティーン・ボリーソヴィチはそのままサライにとどまり、ロストーフに戻ることはなかった。

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