リューリク家人名録

イヴァン・フョードロヴィチ

Иван Федорович

生:1350
没:1380.09.08

父:ベロオーゼロ公フョードル・ロマーノヴィチベロオーゼロ公ロマーン・ミハイロヴィチ
母:マリーヤ or フェオドーシヤ (モスクワ公イヴァン1世・カリター

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1コンスタンティーン

第16世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。

 1359年にヴラディーミル大公だったモスクワ公イヴァン赤公が死ぬと、遺児ドミートリイ・ドンスコーイがまだ幼かったため、スーズダリ公ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチヴラディーミル大公となる。
 しかしこれに反発したモスクワのボヤーリンたちは、1362年にドミートリイ・ドンスコーイたちを連れてサライに伺候。ムラド・ハーンから大公の認可状をもらった。
 しかしムラド・ハーンと対立するアブドゥル・ハーンの使者をモスクワ側が丁重に迎え入れたことから、ムラド・ハーンが激怒。大公位を諦めていなかったドミートリイ・コンスタンティーノヴィチがムラド・ハーンに接近。
 1363年、イヴァン・フョードロヴィチはサライに赴き、ドミートリイ・コンスタンティーノヴィチに大公位を与える認可状をムラド・ハーンからもらってきた。もっとももはやこの認可状は意味を持たず、ドミートリイ・ドンスコーイは実力で大公位を維持した。
 イヴァン・フョードロヴィチがサライに赴いたというのは、完全にドミートリイ・コンスタンティーノヴィチ側に立った動きである。とはいえ当時イヴァン・フョードロヴィチは13歳。父も存命中であったので、実際は父に命じられて行動したのだろう。

 もっとも、母親はよくわからないが、父の結婚相手はひとりしか知られていないので、おそらくモスクワの公女だろうが、だとするとイヴァン・フョードロヴィチはドミートリイ・ドンスコーイの従兄弟である。必ずしもそのような血縁が意味を持つとは限らないが、あるいはそれもあってか、以後イヴァン・フョードロヴィチはドミートリイ・ドンスコーイに従ったようである。

 1375年、ドミートリイ・ドンスコーイのトヴェーリ遠征に従軍。1380年にもクリコーヴォの戦いに従軍し、父ともども戦死している。

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