イヴァン・アレクサンドロヴィチ
Иван Александрович
ロストーフ(=ボリソグレーブスキイ)公 князь Ростовский(-Борисоглебский) (1417-)
生:?
没:?
父:ロストーフ公アレクサンドル・コンスタンティーノヴィチ (ロストーフ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | イヴァン | |||||
2 | アンドレイ | |||||
3 | ヴァシーリイ | |||||
4 | コンスタンティーン | |||||
5 | アレクサンドル |
第17世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。
おそらくは、アンドレイ、フョードルの末弟。
一般的には、1404年に父が死んだ後、まずアンドレイが、続いて1415年にアンドレイがプスコーフ代官になるとフョードルがロストーフ=ボリソグレーブスキイ公になったとされている。イヴァン・アレクサンドロヴィチにもどこかしら分領が与えられていてしかるべきだが、フョードル・アレクサンドロヴィチにもどこかの分領が与えられたとの記録はなく(そもそも15世紀のロストーフについては記録が乏しい)、何より都市ロストーフそのものすら二分しなければならないようなロストーフ系一族には、イヴァン・アレクサンドロヴィチに与えられるような分領はなかったのかもしれない。
1417年、アンドレイに代わってフョードルがプスコーフ代官に任命されると、イヴァン・アレクサンドロヴィチがロストーフ=ボリソグレーブスキイ公になったものと思われる。
もっとも、イヴァン・アレクサンドロヴィチについては家系図にしか記述がなく、正確なところは不明である。