フョードル・ヴァシーリエヴィチ
Федор Васильевич
ロストーフ(=ウスレティンスキイ)公 князь Ростовский(-Усретинский) (1320-31)
生:?
没:1331.03.28
父:ロストーフ公ヴァシーリイ・コンスタンティーノヴィチ (ロストーフ公コンスタンティーン・ボリーソヴィチ)
母:?
結婚:1326
& マリーヤ・フョードロヴナ
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | アンドレイ | -1409 | ロストーフ |
第15世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。
生年は不明ながら、タティーシチェフは1311年としている。
父の没年も不明だが、一般的に1316年頃だろうとされている(それ以前ではない)。父の死後は、ロストーフは従兄弟のウーグリチ公ユーリイ・アレクサンドロヴィチが継いだらしい。
しかしユーリイ・アレクサンドロヴィチも1320年、子なくして死去。ロストーフとウーグリチは、フョードルとコンスタンティーンのヴァシーリエヴィチ兄弟が相続した。
1328年、モスクワ公イヴァン・カリターがウーグリチを買収。事情はよくわからないが、おそらくこれを機に、フョードルとコンスタンティーンは残るロストーフ公領を分割した。分割の実態はよくわからないが、これは都市ロストーフ自体を二分割するもので、フョードルがスレテンスキイ(ウスレティンスキイ)側(西部)を、コンスタンティーンがボリソグレーブスキイ側(東部)を取った。
フョードル・ヴァシーリエヴィチについては、あとは没年ぐらいしかわかっていることはない。年代記の記述が乏しく、はっきりしたことは言えないが、フョードル・ヴァシーリエヴィチの時代はモスクワ公イヴァン・カリターの全盛期に含まれる。史書の中には、ウスレティンスキイ側、あるいはボリソグレーブスキイ側も、すでにモスクワ公の勢力圏に組み込まれていたとするものも多く、モスクワ公の代官が派遣されて統治していたとするものもある。