リューリク家人名録

アンドレイ・アレクサンドロヴィチ

Андрей Александрович

ロストーフ(=ボリソグレーブスキイ)公 князь Ростовский(-Борисоглебский) (1404-15)
プスコーフ公 князь Псковский (1415-17)

生:?
没:?

父:ロストーフ公アレクサンドル・コンスタンティーノヴィチロストーフ公コンスタンティーン・ヴァシーリエヴィチ
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1イヴァン
ドミートリイ
フョードル
2ヴラディーミル
3ヤン
ピョートル

第17世代。モノマーシチ(ロストーフ系)。

 父の生年も、結婚した年も不明。弟とされるフョードル・アレクサンドロヴィチが1397年から活躍しているので、アンドレイ・アレクサンドロヴィチも遅くとも1380年までには生まれていたと見ていいだろう。

 1404年、父が死去。おそらくアンドレイ・アレクサンドロヴィチが跡を継いだものと思われる。しかし、1411年と1414年にモスクワ大公ヴァシーリイ1世に従ってスーズダリ系諸公と戦っているのはアンドレイ・アレクサンドロヴィチではなく、フョードル・アレクサンドロヴィチである。
 アンドレイ・アレクサンドロヴィチについて知られているのは、1415年、ヴァシーリイ1世によってプスコーフに代官として派遣されたことだけである。しかし1417年、プスコーフ市民に追い出された。代わってプスコーフに代官として送り込まれたのはフョードル・アレクサンドロヴィチであった。

 上述のような経歴を考えてみると、一概にアンドレイ・アレクサンドロヴィチが1404年にロストーフ=ボリソグレーブスキイ公になったとは言い切れないだろう。あるいは兄弟で共同統治していたのかもしれない。

 1417年以後のアンドレイ・アレクサンドロヴィチについては不明。そもそも、15世紀のロストーフについてはほとんど何もわかっていない。
 ロストーフのもう半分を領有していたロストーフ=ウスレティンスキイ公は、すでに1409年頃にイヴァン・アンドレーエヴィチが分領をヴァシーリイ1世に売却している。その後ロストーフにはモスクワ大公の代官が派遣され、ボリソグレーブスキイ側も含めて統治していたらしい。
 1417年にアンドレイ・アレクサンドロヴィチがプスコーフを追われた時点では、プスコーフの代官となったフョードル・アレクサンドロヴィチに代わり、末弟のイヴァン・アレクサンドロヴィチロストーフ=ボリソグレーブスキイ公になっていたようだ。しかしすでにモスクワ大公の代官が派遣されている状況下にあっては、ロストーフ=ボリソグレーブスキイ公といっても名目だけの存在だったろう。現実問題として、アンドレイ・アレクサンドロヴィチもフョードル・アレクサンドロヴィチも、ヴァシーリイ1世によってプスコーフにモスクワ大公の代官として派遣されているのである。事実において、かれらはモスクワ大公の勤務公となっていたと言っていいだろう。

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