リューリク家人名録

ヴャーチコ

Вячко

クケイノス公 князь Кукейносский

生:?
没:1224−ユーリエフ(現タルトゥ、エストニア)

父:?
母:?

結婚:?

子:?

出自不詳。

 ラトヴィアのハインリヒによれば、«Vetseke»。ルーシ側史料と照合した結果、このおかしな名がヴャーチコのことを指しているのはまず間違いない。«ポーロツクの王» の臣下として、コクネセを支配していた。
 コクネセは、現ラトヴィア中央部にある都市で、ルーシ系史料ではクケイノス、クケノイス、クコノスなどさまざまに呼ばれている。

 ラトヴィアのハインリヒによると、コクネセを支配するヴャーチコがリガ司教アルブレヒトに対して、領土の半分を差し出すのでリトアニア人の襲撃から残りの領土を守ってくれるよう依頼した。アルブレヒトはこれに合意。両者はリガで協定を結んだ。
 しかしリヴォニア騎士団長ダニエル・フォン・レネヴァルデンは、これに不満を覚えたか、コクネセを占領してヴャーチコを監禁した。これにアルブレヒトが介入し、ヴャーチコを釈放させてその領土を返還させた。ヴャーチコは同盟の継続を誓ってリガを去った。
 ところが、アルブレヒトがドイツ本国に一時帰国している間に、ヴャーチコはコクネセのドイツ人を虐殺。ポーロツク公ヴラディーミルに対ドイツ人戦の支援を要請した。これに対してリヴォニアのドイツ軍はリガに結集。ヴャーチコはコクネセを焼き払って、ルーシの地(ユーリエフ?)に逃亡した。コクネセはリヴォニア騎士団に占領された。
 これらが正確にいつ起きた出来事かは必ずしもはっきりしないが、ハインリヒによれば、ヴャーチコがアルブレヒトに協定を提案したのは1205年、ヴャーチコがコクネセを焼き払って逃亡したのは1207年暮れから1208年春にかけてのことである。

 1223年、エスト人がドイツ人・デンマーク人に対して蜂起。これを支援したノーヴゴロド公ヤロスラーフ・フセヴォローディチは、ルーシ軍の拠点となるユーリエフにヴャーチコを派遣した。
 1224年、リヴォニア騎士団がユーリエフに侵攻。ヴャーチコはこれを防衛するが、ノーヴゴロドからの救援は間に合わず、ユーリエフが陥落。ヴャーチコも戦死した。なお、ルーシ側の年代記(ノーヴゴロド年代記)にヴャーチコが登場するのはここだけ(「この年ユーリエフで公ヴャーチコが殺され、都市は奪われた」)。

 当コンテンツが基本的に依拠している Рыжов Константин. Монархи России. М., 2006 はポーロツク公ヴラディーミルの子としているが、タティーシチェフ以来ボリース・ダヴィドヴィチの子ヴャーチコと同一視するのが一般的。
 もっともいまだに異説も多く、ドルツク公ボリース・グレーボヴィチの子とする説(ボリース・ダヴィドヴィチボリース・グレーボヴィチを同一人物とする説)もある。

 なお、ヴャーチコなる名は、別の名の崩れた形と考えられるので、本来の名はヴャチェスラーフであったとする説もある。

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最終更新日 03 05 2012

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