リューリク家人名録

フセーヴォロド・グレーボヴィチ

Всеволод Глебович

イズャスラーヴリ公 князь Изяславский (-1159)
ストレージェフ公 князь Стрежевский (1159-)

生:?
没:?

父:ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチ (ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ
母:アナスタシーヤ (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロポルク・イジャスラーヴィチ

結婚:?

子:?

第9世代。ポーロツク系(ミンスク系)。

 後年の経歴からすると、おそらくグレーボヴィチ兄弟の末弟。生年は1090年代後半以降だろうと想像される。兄たち同様、その前半生については何もわかっていない。

 1159年の時点でイジャスラーヴリ公であったことが知られているが、いつイジャスラーヴリを分領としてもらったかは不明。長兄ロスティスラーフ・グレーボヴィチミンスク公となった1146年か、ロスティスラーフ・グレーボヴィチポーロツク公となり、次兄ヴォロダーリ・グレーボヴィチミンスク公となった1151年か。

 1158年、ロスティスラーフ・グレーボヴィチとともに、ドルツクを奪還したローグヴォロド・ボリーソヴィチ(ドルツク系)と対立してドルツクに侵攻。しかしこれを追うことはできず。

 1159年、ポーロツク公位も奪ったローグヴォロド・ボリーソヴィチは、スモレンスク、ノーヴゴロト、プスコーフ(いずれもスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの支配下にあった)の支援を得てイジャスラーヴリに来襲。
 年代記によれば、フセーヴォロド・グレーボヴィチはもともとローグヴォロド・ボリーソヴィチと親しく、その寛容を期待して屈服したという。
 ローグヴォロド・ボリーソヴィチはイジャスラーヴリをブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ(ヴィテプスク系)に与え、フセーヴォロド・グレーボヴィチには代償としてストレージェフを与えた。
 しかし同年、フセーヴォロド・グレーボヴィチはロスティスラーフ・グレーボヴィチの支援を得てイジャスラーヴリを奪回し、ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチを捕虜とする。

 その後の消息は不明。兄たちの行動にも特にかかわってはおらず、あるいはこの時期に早くも死んだのかもしれない。

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