リューリク家人名録

フセスラーフ・ヴァシリコヴィチ

Всеслав Василькович

ヴィテブスク公 князь Витебский
ポーロツク公 князь Полоцкий (1162-67、67-)

生:?
没:?

父:ポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ (ヴィテプスク公スヴャトスラーフ・フセスラーヴィチ
母:?

結婚:
  & ? (スモレンスク公ロマーン・ロスティスラーヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
?ヴォロダーリ
?ヤロポルク・ロスティスラーヴィチトルジョーク公

第10世代。ポーロツク系(ヴィテブスク系)。

 父は1144年頃に死んだとされている。ポーロツク公位はその後ドルツク系やミンスク系に握られている。
 他方、父の本領だったヴィテブスクの公位についてははっきりしない。常識的にはフセスラーフ・ヴァシリコヴィチが相続したと考えられるが、ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチとの長幼の順も不明で、何とも言えない。

 1162年、ドルツク系のローグヴォロド・ボリーソヴィチがポーロツクから追われると、フセスラーフ・ヴァシリコヴィチがポーロツク公に就任。

 1165年、年代記によると、スモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチロマーン・ヴャチェスラーヴィチを追ってヴィテブスクを奪った。
 ロマーン・ヴャチェスラーヴィチについてはこれ以外の記述が存在せず、その素性も、またヴィテブスク公となったいきさつについてもよくわからない。あるいは、1162年にフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチがポーロツク公となるに際してロマーン・ヴャチェスラーヴィチを後任のヴィテブスク公としたのか(弟?ブリャチスラーフがいたのに)。

 1167年、ミンスク公ヴォロダーリ・グレーボヴィチに敗北し、ヴィテブスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの子)のもとへ逃亡。ヴォロダーリ・グレーボヴィチはヴィテブスクにも侵攻してきたが、逃亡。フセスラーフ・ヴァシリコヴィチはポーロツク公に返り咲いた。
 なお、この年ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチが死に、ダヴィド・ロスティスラーヴィチはキエフ近郊のヴィーシュゴロドの公となっているので、おそらくヴィテプスクはポーロツク公領に返還されたものと想像される(ただし公が確認されるのは、1175年以降のブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチから)。

 次代のヴィテプスク公が確認されるのは1175年だが、次代のポーロツク公が確認されるのは1186年。それまでのフセスラーフ・ヴァシリコヴィチ(その死についても)、ひいてはポーロツクについては、何もわかっていない。
 ただし、もしフセスラーフ・ヴァシリコヴィチがその地位を全うできたとすると、1186年までにポーロツク公として死んだということになろう。

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