リューリク家人名録

ロスティスラーフ・グレーボヴィチ

Ростислав Глебович

ミンスク公 князь Минский (1146-51、59-65)
ポーロツク公 князь Полоцкий (1151-59)

生:?
没:1165

父:ミンスク公グレーブ・フセスラーヴィチ (ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ
母:アナスタシーヤ (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロポルク・イジャスラーヴィチ

結婚:
  & ソフィヤ公女 -1158 (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公ヤロスラーフ・スヴャトポールチチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ソフィヤ・ヤロスラーヴナと
1グレーブ-1158ドルツク

第9世代。ポーロツク系(ミンスク系)。

 両親の結婚が1090年とされているので、ロスティスラーフ・グレーボヴィチの誕生はおそらく1090年代初頭であろう。だとすると享年は70歳前後ということになる。ポーロツク系というのは長生きの系統のようだ。

 1119年、父はヴラディーミル・モノマーフに反抗し、その子ムスティスラーフ偉大公の捕虜となる。そのままキエフで死を迎えた。
 ロスティスラーフ・グレーボヴィチはすでに成年に達していたと思われるが、父からどこかの分領をもらっていたのか、父の死後どうなったか、等、よくわからない。常識的に考えれば、ミンスクを相続したのだろうとは思われる。

 1129年、ポーロツク系諸公はムスティスラーフ偉大公によってコンスタンティノープルに追放された。この時ロスティスラーフ・グレーボヴィチも追放されたかどうかもわからない。とはいえ、ポーロツク系諸公がおしなべて追放されたらしいので、おそらくロスティスラーフ・グレーボヴィチもその中に含まれていたことだろう。
 妻の両親の結婚は1112年のこととされているので、妻の生年は1110年代と考えていいだろう(もちろん妻の母は父の先妻だったという可能性も否定されないが)。とすると、コンスタンティノープル追放中に結婚したとも思われないし、帰国後だと妻の年齢が行きすぎてしまうから、おそらく1129年までに結婚していたのだろう。ちなみに妻の母親はムスティスラーフ偉大公の娘、つまり妻はムスティスラーフ偉大公の孫にあたる(と思われる)が、ムスティスラーフ偉大公は娘婿のブリャチスラーフ・ダヴィドヴィチ、妹婿のスヴャトスラーフ・フセスラーヴィチすら追放しているので、孫娘の夫だろうと容赦しなかったに違いない。

 1146年、キエフ大公となったイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチムスティスラーフ偉大公の子)からミンスクをもらう。

 ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチと同盟したとする史書がある。とするならば、ロスティスラーフ・グレーボヴィチはいつからか立場を変えたということだろう(この両者はイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの仇敵)。

 1151年、ポーロツク市民が蜂起。公ローグヴォロド・ボリーソヴィチ(ドルツク系)を捕らえ、ロスティスラーフ・グレーボヴィチのもとに送り届けた。
 ローグヴォロド・ボリーソヴィチイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの娘婿であり、これを捕らえたポーロツク市民が、その身柄をイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの仇敵と同盟するロスティスラーフ・グレーボヴィチに引き渡したのは当然であろう。
 ロスティスラーフ・グレーボヴィチはローグヴォロド・ボリーソヴィチをミンスクに監禁し、自らポーロツク公となる。ミンスクは弟ヴォロダーリ・グレーボヴィチに委ね、さらにドルツクも奪って息子グレープに与えた。
 なお、その後ユーリイ・ドルゴルーキイの仲裁でローグヴォロド・ボリーソヴィチは釈放した。

 しかしポーロツクは必ずしも反ローグヴォロド一色に染まったわけではなかったようだ。ましてや1154年にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチが、1157年にユーリイ・ドルゴルーキイが死んだことで、ルーシ情勢は大きく変化していた。
 1158年、スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの支援を得たローグヴォロド・ボリーソヴィチがドルツクを奪還。この報せにポーロツクの親ローグヴォロド派が蜂起。ロスティスラーフ・グレーボヴィチは1159年にはポーロツクを棄ててミンスクの弟のもとに身を寄せた。ローグヴォロド・ボリーソヴィチポーロツク公に返り咲いた。末弟フセーヴォロド・グレーボヴィチもイジャスラーヴリから追われる。

 勢いに乗ったローグヴォロド・ボリーソヴィチはさらにミンスクに侵攻。しかしロスティスラーフ・グレーボヴィチは果敢に抗戦し、結局ふたりは講和した。
 もちろんこの講和が長続きするはずもない。この年のうちにロスティスラーフ・グレーボヴィチはイジャスラーヴリを攻略。ローグヴォロド・ボリーソヴィチによりここに据えられたブリャチスラーフ & ヴォロダーリのヴァシリコヴィチ兄弟(ヴィテプスク系)を捕虜とする。
 これに対してローグヴォロド・ボリーソヴィチが翌1160年に再びミンスクを攻囲。ロスティスラーフ・グレーボヴィチは今回も護り抜いたが、講和に際してヴァシリコヴィチ兄弟の釈放に同意させられた。

 1161年にもミンスクに侵攻したローグヴォロド・ボリーソヴィチを撃退。
 結局ローグヴォロド・ボリーソヴィチは、1162年にヴォロダーリ・グレーボヴィチの領有するゴロデーツの攻囲に失敗してドルツクに敗退。ポーロツクはヴァシリコヴィチ兄弟の長兄フセスラーフが継いだ。

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