リューリク家人名録

ロマーン・フセスラーヴィチ

Роман Всеславич

ポーロツク公 князь Полоцкий (1101-16)

生:?
没:1116−ムーロム

父:ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ (ポーロツク公ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:?

第8世代。ポーロツク系。

 ロマーン・フセスラーヴィチについてわかっていることは少ない。おそらく確実なのは、『原初年代記』によれば1116年にムーロムで、ニーコン年代記によれば1114年にリャザニで死んだということだけであろう。これすらも両説のうちいずれが正しいか判断できないわけだが、ムーロムにせよリャザニにせよヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチの分領であり、つまりロマーン・フセスラーヴィチはそのもとに身を寄せていた、ということだろう。

 フセスラーヴィチ7兄弟についてはよくわからない点が多々ある。長男とされることの多いロマーン・フセスラーヴィチについての項で、多少ほかの項で述べるところと重複する部分もあるが、一応総論を述べておこう。

 フセスラーヴィチ7兄弟の生年はまるっきり不明。
 1067年、父はキエフ大公イジャスラーフ・ヤロスラーヴィチとの会見にふたりの息子を伴っていたとされる。生まれたばかりの幼児とは考えられないから、長男と次男は1067年の時点で10歳ぐらいにはなっていたと想像される。つまり長男と次男は、最低でも1055年頃の誕生であると想像される。
 ただし、このふたりはその後若くして死んでしまい、フセスラーヴィチ7兄弟はそれ以後に生まれた、ということもあり得る。個人的には、兄弟が1100年以前にはまったく姿を見せず、主に活躍するのが1100年代から1110年代にかけてであり、1129年にコンスタンティノープルに追放された者もいることから、兄弟の誕生はもう少し遅く、1060年代から70年代にかけての時期と考えた方が妥当な気がする。

 フセスラーヴィチ7兄弟とは、ロマーン、グレーブボリースダヴィドローグヴォロドスヴャトスラーヴィチロスティスラーフである。
 しかしグストィン年代記に「ポーロツクの公ローグヴォロド、またはボリース」という記述があり、これを根拠にボリースローグヴォロドとを同一人物と見る考えが一般的である。しかし兄弟には年代記にほとんど名前を現さない者もいて、ロマーンなどはロスティスラーフと並んでその経歴がわからない人物の筆頭である。そういう意味では、削ろうと思えば7兄弟が6兄弟でなくとも、5兄弟でも4兄弟でも何の問題もなくなってしまう。

 フセスラーヴィチ7兄弟の長幼の順は不明。
 長幼の順は、そのままポーロツク公位を継いだのは誰か、という問題に直結する。そしてそれはまた、父の遺領を兄弟でどう分割したのか、という問題ともからんでくる。
 もっとも常識的な、それだけに後世的な見解としては、長男がポーロツク公位を継ぎ、次男以下が分領を受け取ったとするものだろう。ちなみに分領の候補としては、ドルツクミンスクヴィテブスクのほかに、イジャスラーヴリロゴジュスクルコームリなどが挙げられているようだ。
 フセスラーヴィチ兄弟からは、ドルツク系(ボリース)、ミンスク系(グレーブ)、ヴィテプスク系(スヴャトスラーヴィチ)の3つの系統がのちに続いている。このことからドルツク、ミンスク、ヴィテブスクは1101年の時点で分領として成立したものと考えられるが、しかし1116年の時点でドルツクはミンスク公グレーブの領土であった。つまりボリース(あるいはその子孫)がドルツク公となったのはこの後か、さもなくば一旦分領として得たドルツクをグレーブに奪われたということであろう。
 1104年、キエフ・チェルニーゴフ等の連合軍がミンスクにグレーブを攻めた際、攻囲した側にはダヴィドが混じっていた。
 ここでさらに、ロマーンの死んだ地について考えてみると、ポーロツクからは遠く離れたムーロム=リャザニの地である。これはつまり、ポーロツクに居られなくなったために自発的にせよ他者からの強制にせよムーロム=リャザニに亡命した、ということではないだろうか。
 つまりこれらを見ると、フセスラーヴィチ兄弟は骨肉の争いを繰り広げていたのではないかと想像される。当然その原因は分領であろう。
 かく考えてくると、フセスラーヴィチ兄弟が父の死に際しておとなしく領土を7(6)分割したとは到底思えない。それどころか、長男がポーロツク公位を継いだとしても、弟たちがおとなしくその宗主権に服していたとも思えず、むしろ長男がポーロツク公位を保持し得たかどうかすらあやしく思われる。

 具体的に長男の候補としては、学者の意見はロマーンかダヴィドのどちらかに分かれるようだ。
 ロマーン・フセスラーヴィチが長男であったとしたら、父の死後一旦はポーロツク公位を継いだものの、弟たちに追われてムーロム=リャザニに亡命した、と考えられるようだ。
 ダヴィド・フセスラーヴィチが長男であったとしたら、ロマーン・フセスラーヴィチは分領を与えられず(あるいは一旦は与えられたものの兄に取り上げられ)、やはりムーロム=リャザニに亡命した、と考えられるようである。
 当時のポーロツクの状況からすると、どちらも十分にありそうではある。

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