リューリク家人名録

ローグヴォロド・ボリーソヴィチ

Рогволод Борисович

ドルツク公 князь Друцкий (1140-46、58-)
ポーロツク公 князь Полоцкий (1144-51、59-62)

生:?
没:?

父:ドルツク公ボリース・フセスラーヴィチ (ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ
母:?

結婚:1144
  & ? (ヴラディーミル=ヴォルィンスキイ公イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1グレーブドルツク
2エヴフロシーニヤ-1243ヤロスラーフ・ヴラディーミロヴィチ-1245プスコーフ公
?フセスラーフ

第9世代。ポーロツク系(ドルツク系)。洗礼名ヴァシーリイ。

 父の素性ははっきりしない。年代記にはローグヴォロド・ボリーソヴィチと父称付きで言及されているので、父親がボリース・フセスラーヴィチであったことは確かだが、ボリース・フセスラーヴィチローグヴォロド・フセスラーヴィチと同一人物だとの説が一般的である。そうだとすると、ローグヴォロド・ボリーソヴィチは同時にローグヴォロド・ログヴォローディチでもあったことになる。父と子が同じ名を共有するという慣習は当時のリューリコヴィチには存在せず(一般化するのは14世紀以降)、かなり特殊な例である。
 いずれにせよ、父親が1127年か28年までポーロツク公であったことはまず間違いなさそうで、ローグヴォロド・ボリーソヴィチも父の下でいずれかの分領を与えられていたらしい(おそらくは父の分領ドルツクか)。また、かれの生年はよくわからないが、1110年代半ばまでには生まれていたと見てよさそうだ。
 しかし1129年、ポーロツク諸公はムスティスラーフ偉大公によってコンスタンティノープルに追放される。父を亡くしたばかりのローグヴォロド・ボリーソヴィチも、ともにビザンティン帝国に赴いた。彼の地での生活はわからない。
 1140年、帰国。おそらくこの時、父祖の地ドルツクを奪還したようだ。

 ローグヴォロド・ボリーソヴィチの帰国、そしてその後のドルツク公位就任については、事情がはっきりしない。しかし当時はキエフ大公位を巡って諸公が激しく争っていた時代である。その一方の主役が、ムスティスラーフ偉大公の子イジャスラーフ・ムスティスラーヴィチである。ローグヴォロド・ボリーソヴィチは1143年にイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチの娘と結婚しており、何らかの関係があったのかもしれない。
 1144年、ポーロツク公ヴァシリコ・スヴャトスラーヴィチ(ヴィテブスク系)が死去し、ローグヴォロド・ボリーソヴィチが後任のポーロツク公となる(ただし正確な年代をはじめ、状況は不明)。おそらくこれにもイジャスラーフ・ムスティスラーヴィチとのつながりがモノを言ったであろう。

 しかしローグヴォロド・ボリーソヴィチがポーロツク公となってから、諸公間の内紛が勃発した。もっとも、年代記はそう伝えているものの、実際にどのような出来事があったかまでは記していない。おそらく、のちの行動から推して、ローグヴォロド・ボリーソヴィチがポーロツク公領内における最高権力者として君臨せんと諸公を圧迫したのだろう。
 あるいはこれと関係があるのか、1151年、ポーロツク市民が蜂起。ローグヴォロド・ボリーソヴィチは捕らえられ、ミンスク公ロスティスラーフ・グレーボヴィチに引き渡され、ミンスクに監禁された。ロスティスラーフ・グレーボヴィチポーロツク公となり、ドルツクも奪われてその子グレーブ・ロスティスラーヴィチが公となった。
 その後、ロストーフ=スーズダリ公ユーリイ・ドルゴルーキイの介入で釈放され、その同盟者であるチェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・オーリゴヴィチのもとに身を寄せた。

 ポーロツク市民から推されて公位に就いたロスティスラーフ・グレーボヴィチだったが、市民の中には反ロスティスラーフ派がいたらしく、その治世はなかなか安定しなかったようだ。
 1158年、ローグヴォロド・ボリーソヴィチはスヴャトスラーフ・オーリゴヴィチの支援を得て、父祖の地ドルツクを奪回するためポーロツクに侵攻。ドルツク市民はこれを歓迎し、ドルツク公グレーブ・ロスティスラーヴィチを追ってローグヴォロト・ボリーソヴィチを受け入れた(グレーブ・ロスティスラーヴィチはこの前後に死んだらしい)。
 ローグヴォロド・ボリーソヴィチがドルツクを奪還した報せに、ポーロツクの反ロスティスラーフ派が勢いづく。1159年、ロスティスラーフ・グレーボヴィチはドルツクに進撃するが、ローグヴォロド・ボリーソヴィチはこれを撃退。これにより反ロスティスラーフ派のポーロツク市民がローグヴォロド・ボリーソヴィチを公に招く。ロスティスラーフ・グレーボヴィチはポーロツクから逃亡してミンスクに退き、ローグヴォロド・ボリーソヴィチがポーロツク公に返り咲いた。

 ポーロツク公となったローグヴォロド・ボリーソヴィチは、さらにスモレンスク公ロスティスラーフ・ムスティスラーヴィチの支援を得て、イジャスラーヴリからフセーヴォロド・グレーボヴィチロスティスラーフ・グレーボヴィチの弟)を追う。フセーヴォロド・グレーボヴィチにはストレージェフを与え、イジャスラーヴリはブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチ(ヴィテブスク系)に与えた。
 ローグヴォロド・ボリーソヴィチはさらにミンスクを攻囲するが、これを陥落させることはできなかった。

 1160年、ロスティスラーフ・グレーボヴィチが反撃に出て、イジャスラーヴリを奪還。ブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチを捕虜とした。これに対してローグヴォロド・ボリーソヴィチは再度ミンスクを攻囲するが、6週間にわたる攻囲も空しく、講和を余儀なくされた(ただしブリャチスラーフ・ヴァシリコヴィチは釈放させた)。
 ローグヴォロド・ボリーソヴィチは、1161年にもミンスクを攻囲している。

 1162年、ヴォロダーリ・グレーボヴィチロスティスラーフ・グレーボヴィチの弟)の治めるゴロデーツに侵攻。しかし撃退され、スルーツクに撤退。そこから、ポーロツクに戻ることなく、ドルツクに帰還した。ゴロデーツ近郊であまりに多くのポーロツク市民を戦死させたため、ポーロツクに帰るに帰れなかったという。
 後を継いでポーロツク公となったのはフセスラーフ・ヴァシリコヴィチ

 以後のローグヴォロド・ボリーソヴィチの消息は不明。1171年までは生きていたと見られる。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system