ポーロツク系

リューリク家の分流の1。ポーロツク公領をほぼ独占的に世襲したのでこう呼ばれる。
 ヤロスラーフ賢公(5)の兄イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ(5)を始祖とする。そのため、«イジャスラーヴィチ» と呼ばれることもあるようだが、当コンテンツでは «イジャスラーヴィチ» は別の系統を指すこととする。リューリク家の分家はすべてヤロスラーフ賢公(5)の子孫だが、このポーロツク系だけが例外ということになる。
 ただしイジャスラーフ(5)と、その長男フセスラーフ(6)のふたりは父ヴラディーミル偉大公(4)よりも先に死んだので、実質的なポーロツク系の初代は次男ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチ(6)と言うべきか。

 ヴラディーミル偉大公(4)は複数の妻から息子を設けたが、最も有名な妻がログネーダだろう。その子孫であるポーロツク系は、女系を通じてポーロツク公ローグヴォロドの血を引いていることになる。あるいはそのためもあるのか、ポーロツク公領はもっとも早くに分領公領としての体裁を整えていった。イジャスラーフ(5)、フセスラーフ(6)、ブリャチスラーフ(6)、フセスラーフ(7)と、この系統がポーロツク公位を世襲したのもその表れである。
 特にブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチ(6)とフセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ(7)の父子は、あわせて100年にわたってポーロツクを継続的に支配。フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ(7)の治世は60年近くに及び、キエフ・ルーシの他の地域が混乱していた中で、強力な公権力を確立することに成功した。これには、ほかに兄弟がなく、分領に分割されずに済んだことも大きかったと言える。

 フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ(7)の子から分領が分かれ、ポーロツク公領は細分化されていく。のみならず、フセスラーヴィチ兄弟(8)は強大な権限を持つポーロツク公位を巡って互いに激しく争ったらしい。このためポーロツク公領の統一は失われ、それがキエフ大公など有力諸公の介入を招くこととなった。
 同時にこの頃から、年代記の記述が断片的で、矛盾に満ちたものとなっていく。特に1129年に、ポーロツク系の諸公がムスティスラーフ偉大公(8)によってコンスタンティノープルに «追放» されて後は、ポーロツク系、ひいてはポーロツクについて情報の欠落が甚だしい。東ではスモレンスクに、南ではヴォルィニに、北ではノーヴゴロドに勢力圏を侵食されていたようだ。それでも西ではリトアニアやリヴォニアに進出し、13世紀初頭には、ドイツ系の史料によると、ポーロツク諸公の勢力圏がこれら地域にも及んでいた。
 系統としては、ドルツク系、ミンスク系、ヴィテブスク系の3つに分かれたが、どうやらそれもさらに分裂していったようだ。かれらが相争う中で強力で統一的な中央権力の確立に失敗したポーロツク諸公は、12世紀後半から東のスモレンスク公に、13世紀に入ると西のリトアニアに従属するようになる。とはいえ、そもそも13世紀に入って名前のわかっているポーロツク諸公は、リヴォニアにいたポーロツク系らしき者とヴィテブスク系(と思われる者)だけとなってしまっている。最終的には、14世紀に入って完全にリトアニアに呑み込まれてしまった。
 かつてはのちのドルツキイ公家はドルツク系の末裔だとする説もあったが、近年は異説も出ている。その他、この系統の子孫(と思われるもの、を主張するもの)は残っているが、必ずしも血縁関係は明確ではない。

 以下、スタイルシートで家系図を示す。環境次第では(正確に)表示されない。悪しからず。(正確に)表示されない場合は、こちらの画像を。
 赤枠はポーロツク公。

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