聖エヴフロシーニヤ・ポーロツカヤ
Предслава, Св. Евфросиния Полоцкая
公女 княжна
生:1110−ポーロツク
没:1173−イェルサレム
父:ヴィテブスク公スヴャトスラーフ・フセスラーヴィチ? (ポーロツク公フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチ)
母:?
結婚:なし
子:なし
第9世代。ポーロツク系。
生年は不明。1110年説のほかにも、1101年説、1120年説などがある。
父親は不詳。聖者伝には彼女の父親はゲオルギイ(ユーリイ)と記されているが、フセスラーフ・ブリャチスラーヴィチにはそういう名の男子はない。そこで多くの学者は、この名はスヴャトスラーフ・フセスラーヴィチ(ヴィテブスク系)の洗礼名だと考えているが、中にはロスティスラーフ・フセスラーヴィチの洗礼名と考える者もいる。
なお、彼女にはゴリスラーヴァ/ゴルディスラーヴァ/ゴロディスラーヴァという妹がいた。
俗名はプレツラーヴァといったが、若くして(聖者伝によれば12歳の時)ポーロツクのスパースキイ修道院に入る(修道名エヴフロシーニヤ)。
エヴフロシーニヤが修道院に入った時期との前後関係は不明だが、1129年にポーロツク一族はムスティスラーフ偉大公によってコンスタンティノープルに追放されている。父親が誰であったかも含めて、エヴフロシーニヤの前半生があまりはっきりしないのは、これと関係があるのではないかと思われる。
エヴフロシーニヤは、修道院で教会関連書物の書写に従事。稼いだ金で貧しい人々への慈善活動にも携わる。
1160年頃、ポーロツク近郊にスパース教会を建立。学校を開設し、古写本の翻訳も行った。さらにポーロツクに女子修道院も創設(20世紀まで存続した)。この女子修道院で、妹ゴリスラーヴァ(修道名エヴドキーヤ)、従姉妹ズヴェニスラーヴァ(同エヴプラクシーヤ)、ふたりの姪オリガ(同エヴフィーミヤ)とキリニヤ(同アガーフィヤ)も修道女としている。
1170年、弟ダヴィドを伴い聖地巡礼の旅に。コンスタンティノープル総主教ルカス・クリュソベルゲス(ミカエル3世との説も)からイコン «コルスンの聖処女» をもらう。イェルサレムで、王アモーリー1世に迎えられる。
イェルサレムにて死去。遺骸はキエフに運ばれ、ペチェールスキイ修道院に埋葬された。1910年、ポーロツクのスパース修道院に移される。