リューリク家人名録

ブリャチスラーフ・イズャスラーヴィチ

Брячислав Изяславич

ポーロツク公 князь Полоцкий (1003-44)

生:?
没:1044−ポーロツク

父:ポーロツク公イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ (キエフ大公ヴラディーミル偉大公
母:?

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1フセスラーフ-1101ポーロツク

第6世代。ポーロツク系。

 フセスラーフ・イジャスラーヴィチとの長幼の順は不明。一般的にはブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチが弟とされており、フセスラーフ・イジャスラーヴィチの死後にポーロツク公位を継いだとされる。
 たとえ兄であったとしても、父の死んだ1001年にはまだ10歳にも満たなかったのはまず間違いなく、むしろまだ生まれて間もない時期であったろう。とすると、年代記で活動を始めるのが1021年からであるのも肯ける。

 1015年、祖父ヴラディーミル偉大公が死去。おそらくようやく成年に達したばかりであったろうブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチは、その後スヴャトポルク・オカヤンヌィイヤロスラーフ賢公との間の争いには積極的には関与していない。
 とはいえ、かれ個人の思惑とは無関係に、ポーロツクはバルト海貿易の権益を巡ってノーヴゴロドと競合する関係にあった。おそらくこのためだろう。キエフに向かうヤロスラーフ賢公の軍(当時はポーロツク近郊を経由せずにノーヴゴロドからキエフに向かう道はなかった)と敵対したとも言われる。

 1021年、ノーヴゴロドを占領。略奪を欲しいままにし、ポーロツクに帰還した。
 しかし帰途、キエフ大公ヤロスラーフ賢公に追いつかれ、敗れるが、許される。
 ある年代記によると、ヤロスラーフ賢公からヴィテブスクを割譲され、以後両者の関係は良好だったと言う(逆に終生緊張関係が続いたともされる)。

 1035年、トムタラカーニ公ムスティスラーフ勇敢公の死でヤロスラーフ賢公がルーシを再統一する。が、ブリャチスラーフ・イジャスラーヴィチはポーロツクの事実上の独立を維持した。

▲ページのトップにもどる▲

Copyright © Подгорный (Podgornyy). Все права защищены с 7 11 2008 г.

ロシア学事始
ロシアの君主
リューリク家
人名録
系図
人名一覧
inserted by FC2 system