ロマーン・ミハイロヴィチ «スタールィイ»
Роман Михайлович "Старый"
ブリャンスク公 князь Брянский (1246-88)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1263-88)
生:?
没:1288?
父:チェルニーゴフ公ミハイール・フセヴォローディチ (チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公)
母:? (ガーリチ=ヴォルィニ公ロマーン偉大公)
結婚:
& アンナ
子:?
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | オレーグ | ブリャンスク | ||||
2 | ミハイール | ブリャンスク | ||||
3 | オリガ | ヴラディーミル・ヴァシリコヴィチ | ヴォルィニ公 |
第12世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。
おそらく父の次男だと思われる。生年は不明だが、兄ロスティスラーフ・ミハイロヴィチについては1210年代から1220年代のさまざまな説がある。
1245年、サライに赴いた父が当地で殺された。兄ロスティスラーフ・ミハイロヴィチは当時すでにチェルニーゴフを棄ててハンガリーに居候していたので、ロマーン・ミハイロヴィチが父の跡を継いだ。
もっとも、この辺りはっきりしない。チェルニーゴフ公になったのはフセーヴォロド・ヤロポールチチ、あるいはアンドレイ・フセヴォローディチとされることもある(あるいはこのふたりは父子で、相次いでチェルニーゴフ公位を占めたとされることもある)。
ロマーン・ミハイロヴィチ自身がブリャンスクに居住していたのは確からしく、このため歴史家の多くは、モンゴルの来襲後、特に父の死後はセーヴェルスカヤ・ゼムリャーの中心地はチェルニーゴフからブリャンスクに移ったと考えている。確かにチェルニーゴフ自体はモンゴル軍によって壊滅的な打撃を受けていた。
壊滅的な打撃を受けていたのはチェルニーゴフという都市だけの話ではなく、セーヴェルスカヤ・ゼムリャー全体がそうであった。このため、ロマーン・ミハイロヴィチの弟たちはいずれも北東部のオカー河上流域に分領をもらい、そちらに移住していっている(一般的に父の死んだ1246年にかれらに分領が与えられたとされている)。
他方、この当時ははるか北西でリトアニア人がミンダウガスの下で部族統一を成し遂げ、モンゴルによって荒廃したルーシの地に急速に勢力を拡大していた。ルーシの地が本格的にリトアニアに併合されるのは14世紀に入ってからだが、すでにこの時期リトアニアによって好き勝手に蹂躙されていた。リトアニアへの併合が100年先になるのは、この後一時的にリトアニアが混乱状態に陥ったためで、ルーシが国力を回復したからではない。
1263年にはチェルニーゴフもリトアニアに占領された。しかしこの年、ミンダウガスが殺される。それとの前後関係は不明ながら、ロマーン・ミハイロヴィチは1263年、リトアニアからチェルニーゴフを奪った。
さらに1264年には侵攻してきたリトアニア軍を撃退している。
1274年、メング=ティムールの命により、ガーリチ公レフ・ダニイーロヴィチを支援してリトアニア大公トライデニスと戦う。
1286年、スモレンスクに侵攻。その郊外を焼き払うが、スモレンスクを陥落させるにはいたらなかった。
サライで殺されたと言われるが、詳細は一切不明。
添え名の «スタールィイ» は「古い」。人について使われる場合には、「年老いた・老齢の」という意味。