リューリク家人名録

聖ミハイール・フセヴォローディチ

Св. Михаил Всеволодич

ペレヤスラーヴリ公 князь Переяславский (1206)
ノーヴゴロド公 князь Новгородский (1224、29)
チェルニーゴフ公 князь Черниговский (1224-36、43-46)
ガーリチ公 князь Галицкий (1235-38)
キエフ大公 великий князь Киевский (1238-46)

生:1179頃
没:1246.09.20

父:チェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公チェルニーゴフ公スヴャトスラーフ・フセヴォローディチ
母:アナスタシーヤ (ポーランド王カジミェシュ2世)

結婚:
  & エレーナ(タティヤーナ?)公女 (ガーリチヴォルィニ公ロマーン偉大公

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エレーナ(タティヤーナ?)・ロマーノヴナと
1ロスティスラーフノーヴゴロドアンナ1226-85ハンガリー王ベーラ4世
2ロマーンブリャンスク
母親不詳
3セミョーングルーホフ
4ムスティスラーフカラーチェフ
5ユーリイトルーサ
6マリーヤヴァシリコ・コンスタンティーノヴィチ1209-38ロストーフ公
7フェオドゥーリヤ-1250修道女エヴフロシーニヤ

第11世代。スヴャトスラーヴィチ(オーリゴヴィチ)。

 1205年、ガーリチヴォルィニ公ロマーン偉大公の死で、南ルーシ情勢は劇的に変化した。ヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公とともに覇権を握っていた一方の雄の死去で、屈服していたキエフ大公リューリク・ロスティスラーヴィチも父も自立的な動きを始める。そして1206年には、父は親族のイーゴレヴィチ兄弟とともにガーリチ=ヴォルィニを平定すると、さらにリューリク・ロスティスラーヴィチをキエフから、ヤロスラーフ・フセヴォローディチフセーヴォロド大巣公の子)をペレヤスラーヴリから追って、自らがキエフ大公になるとともに、ミハイール・フセヴォローディチにペレヤスラーヴリを与えた。
 しかしリューリク・ロスティスラーヴィチはスモレンスク系一族の力を結集して反撃。父はキエフから、ミハイール・フセヴォローディチもペレヤスラーヴリから追われた。

 その後しばらく、ミハイール・フセヴォローディチの動向は不明。父は1210年にはキエフ大公に返り咲き、リューリク・ロスティスラーヴィチとも和解しているので、ミハイール・フセヴォローディチがどこかの分領をもらっていてもいいだろうと思うのだが、それらしい情報はない。
 1215年、父が死去。チェルニーゴフ公位は、叔父のグレーブ・スヴャトスラーヴィチ、次いでムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチが継いだ。

 1223年、カルカ河畔の戦いには、ミハイール・フセヴォローディチも叔父ムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチの下で従軍していた。この戦いでムスティスラーフ・スヴャトスラーヴィチが死去。同じく従軍していたオレーグ・クールスキイチェルニーゴフ公位を継いだ。
 1224年、当時ノーヴゴロドに対して覇権を行使していたヴラディーミル大公ユーリイ・フセヴォローディチにノーヴゴロドが反抗。代わってミハイール・フセヴォローディチを公に選んだ。
 実はこの辺り、時系列がおかしい。カルカ河畔の戦いは1223年の出来事のはずだが、ミハイール・フセヴォローディチについて論じている歴史書のほとんどが1224年、ミハイール・フセヴォローディチがノーヴゴロド公になった後の出来事としている。ミハイール・フセヴォローディチはノーヴゴロド公になった直後、チェルニーゴフ公になるためにノーヴゴロドを退去したと説明しているのである。
 もっとも、ミハイール・フセヴォローディチがノーヴゴロドを退去してチェルニーゴフ公となった年については、1224年説と1226年説とがある。
 いずれにせよ、ミハイール・フセヴォローディチはユーリイ・フセヴォローディチの支援を得てオレーグ・クールスキイを追い、チェルニーゴフ公位を確保した。ノーヴゴロドを巡って両者は対立関係にあったのではないかと思うのだが、ユーリイ・フセヴォローディチはミハイール・フセヴォローディチにとっては妹婿であり、また、ミハイール・フセヴォローディチがノーヴゴロドを棄てて南ルーシに去ってくれた方がユーリイ・フセヴォローディチにとっても好都合だったのは確かだろう。
 その後もオレーグ・クールスキイとの対立は続くが、ユーリイ・フセヴォローディチの斡旋で府主教キリールの仲裁を得、1226年にはオレーグ・クールスキイと和解した。

 1228年、キエフ大公ヴラディーミル・リューリコヴィチと同盟し、ヴォルィニに侵攻。しかし得るところなく、チェルニーゴフに帰還した。

 1229年、ヤロスラーフ・フセヴォローディチ不在の折に、ノーヴゴロド市民に招かれてミハイール・フセヴォローディチが再びノーヴゴロド公に。とはいえ、南東のチェルニーゴフと北西のノーヴゴロドとを同時に統治することができるはずもなく、ミハイール・フセヴォローディチは息子ロスティスラーフをノーヴゴロドに残して、自身はチェルニーゴフに帰還した(翌年にはヤロスラーフ・フセヴォローディチノーヴゴロド公に返り咲く)。

 1231年頃からミハイール・フセヴォローディチはヴラディーミル・リューリコヴィチと対立するようになる。
 1233年、ヴラディーミル・リューリコヴィチと戦う。これにガーリチ公ダニイール・ロマーノヴィチが介入し、チェルニーゴフを攻囲される。
 イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチがポーロヴェツ人を率いて駆け付け、撃破。ヴラディーミル・リューリコヴィチを捕虜とする。ダニイール・ロマーノヴィチはガーリチに逃げ帰るが、1235年、ガーリチのボヤーリンが蜂起。かれらに招かれ、ミハイール・フセヴォローディチがガーリチ公となった。
 さらにミハイール・フセヴォローディチはイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチとともにダニイール・ロマーノヴィチの本領ヴォルィニに侵攻するが、結局ダニイール・ロマーノヴィチと講和する。
 南東のチェルニーゴフと南西のガーリチと、ひとりで同時に統治するには無理があり、ミハイール・フセヴォローディチは従兄弟のムスティスラーフ・グレーボヴィチチェルニーゴフ公とした。

 1238年、キエフ大公ヤロスラーフ・フセヴォローディチがヴラディーミルに去ると、ミハイール・フセヴォローディチがキエフ大公に。息子ロスティスラーフガーリチ公として残す。こうしてミハイール・フセヴォローディチは、チェルニーゴフ、キエフ、ガーリチと、南ロシア一帯を勢力下に置いた。
 しかしロスティスラーフ・ミハイロヴィチはすぐにダニイール・ロマーノヴィチにガーリチを奪われた。

 1239年、モンゴル軍襲来の報せにキエフから逃亡。
 ミハイール・フセヴォローディチはハンガリー王ベーラ4世のもとに身を寄せるが、いさかいの末に追い出された。マゾフシェ公コンラドのもとに赴くが、ここでも支援を得ることができず。結局、ロスティスラーフ共々ダニイール・ロマーノヴィチと講和した。
 ミハイール・フセヴォローディチがキエフから逃げ出した後、ダニイール・ロマーノヴィチがキエフを獲得していたが、講和に際してダニイール・ロマーノヴィチキエフ大公位をミハイール・フセヴォローディチに返還することを約束した。またロスティスラーフ・ミハイロヴィチにはルーツクを与えた。
 しかしモンゴルの襲来を怖れてキエフを逃げ出したミハイール・フセヴォローディチがいまさらキエフに戻るはずもなく、そのままガーリチに居候した。

 1240年、キエフが陥落したとの報せに、ミハイール・フセヴォローディチはマゾフシェ公コンラドのもとに、ダニイール・ロマーノヴィチはベーラ4世のもとに身を寄せた。
 1241年、モンゴル軍が南ルーシを去ったとの報せに、ミハイール・フセヴォローディチはキエフに帰還する(もっともキエフそのものは廃墟と化していたので、沖合の川中島に住んだ)。ミハイール・フセヴォローディチがキエフ大公として、ロスティスラーフ・ミハイロヴィチチェルニーゴフ公として、父子協力して南ルーシの復興に努力したが、モンゴルがヴォルガ河口部のサライに本拠を構えて南ルーシにとって不断の脅威となっており、しかもはるか北西のリトアニア人が自由に西ルーシを蹂躙し、キエフまでも攻略する状態だった。
 ロスティスラーフ・ミハイロヴィチは1243年にベーラ4世の娘と結婚してハンガリーに去り、ミハイール・フセヴォローディチはひとりでキエフとチェルニーゴフを支配した。ベーラ4世に支援を乞うても得られず、1245年にミハイール・フセヴォローディチはサライに赴いた。
 モンゴル側はチンギス・ハーンの肖像にぬかずくよう要求するが、ミハイール・フセヴォローディチはキリスト教徒として異教の偶像に礼拝することを拒否。当時たまたまサライに滞在していた孫のロストーフ公ボリース・ヴァシリコヴィチにも屈服するよう説得されるが、拒み続け、結局その目の前で殺された。遺骸はイヌの餌にされた。
 のちにロシア正教会から聖者とされる。

 ミハイール・フセヴォローディチの死後、キエフ大公位はアレクサンドル・ネフスキイが継いだが、もはやキエフには見向きもせず、本拠のヴラディーミル=スーズダリに住んだ。チェルニーゴフ公位は一応半世紀にわたって一族が受け継いだが、その事績はほとんど知られておらず、そもそもチェルニーゴフを離れてブリャンスクに居住するようになる。
 ミハイール・フセヴォローディチを最後に、キエフもチェルニーゴフも空中分解した、と言ってもいいだろう。

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