リューリク家人名録

ユーリイ・ヤロスラーヴィチ

Юрий Ярославич

ムーロム公 князь Муромский (1345-54)

生:?
没:?

父:?
母:?

結婚:?

子:?

素性不詳。

 ユーリイ・ヤロスラーヴィチの素性について知られている事実はほとんどない。
 リャザニ大公ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチの子だ、とする説もあり、確かに年代的には一致するが、他方でこの説を支持する根拠は何ひとつ存在しない。

 1345年、ヴァシーリイという名のムーロム公の死で、その跡を継いだ(想像で言えば、ヴァシーリイはユーリイの兄?)。
 ユーリイ・ヤロスラーヴィチは、モンゴルの数度にわたる来襲で荒廃したムーロムの再建に尽力した。自らの宮殿を立て直したのをはじめ、ボヤーリンや商人たちにも屋敷の新築・改築を奨励。

 1354年、フョードル・グレーボヴィチなる人物がムーロムに侵攻。ユーリイ・ヤロスラーヴィチは追われ、フョードル・グレーボヴィチムーロム公となった。
 ムーロム市民はフョードル・グレーボヴィチを受け入れ、ともにサライへ伺候。しかしかれらが出発するとすぐにユーリイ・ヤロスラーヴィチがムーロムに帰還し、自らもサライに赴いた。
 ハーンの裁定はフョードル・グレーボヴィチに下り、ユーリイ・ヤロスラーヴィチはフョードル・グレーボヴィチに引き渡された。以後、死ぬまで牢獄に監禁されたという。

 これとともに、年代記においてムーロム公が固有名詞を持って登場することはなくなった。

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