リューリク家人名録

フセーヴォロド・グレーボヴィチ

Всеволод Глебович

プロンスク公 князь Пронский (-1186、88-)

生:?
没:1207以前

父:リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチリャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ
母:? (ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ

結婚:?

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
母親不詳
1ミハイール-1217プロンスクヴェーラチェルニーゴフ公フセーヴォロド真紅公

第10世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 グレーボヴィチ兄弟の長幼の順は不明だが、おそらくフセーヴォロド・グレーボヴィチは年少の弟だったと推測される。1178年に父が死んで、(おそらく)長兄のロマーン・グレーボヴィチリャザニ公位を継承するが、フセーヴォロド・グレーボヴィチ等年少の弟たちにはわずかな領土が与えられただけだったようだ。

 1180年、フセーヴォロド・グレーボヴィチは、兄(?)ヴラディーミルとともにロマーン・グレーボヴィチに反抗。ロマーン・グレーボヴィチキエフ大公と結んでいると、当時リャザニに事実上の宗主権を行使していたヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公に訴え出た。
 これを受けてフセーヴォロド大巣公がリャザニに侵攻。グレーボヴィチ兄弟を和解させると同時に、その領土を再分配した。

 1180年の領土再配分がどのようなものだったかは不明だが、おそらくロマーンイーゴリヴラディーミルがリャザニを、フセーヴォロドとスヴャトスラーフがプロンスクを、それぞれ共同で支配するというものだったろう。
 1186年、リャザニの3人はプロンスクに対する攻撃を準備する一方で、フセーヴォロドとスヴャトスラーフをリャザニに呼びつけた。
 フセーヴォロドとスヴャトスラーフは、フセーヴォロド大巣公に救援を要請した。援軍接近の報せに、兄たちの攻囲軍はリャザニに引き上げた。しかしフセーヴォロド・グレーボヴィチが救援軍を出迎えに赴いた隙に、兄たちはスヴャトスラーフを抱き込んでプロンスクを占領。フセーヴォロド・グレーボヴィチの家族や部下を捕らえた。
 フセーヴォロド・グレーボヴィチはコロームナを占領し、そこを拠点にリャザニ公領を攻略。
 1188年、フセーヴォロド大巣公がリャザニに侵攻。フセーヴォロド・グレーボヴィチはプロンスクを奪還した。

 以後の消息は不明。1207年に死んだか、あるいはそれ以前には死んでいたか。

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