スヴャトスラーフ・グレーボヴィチ
Святослав Глебович
プロンスク公 князь Пронский (1186-88)
生:?
没:1213頃
父:リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ (リャザニ公ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ)
母:? (ペレヤスラーヴリ公ロスティスラーフ・ユーリエヴィチ)
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | ロスティスラーフ | -1217 | ||||
2 | スヴャトスラーフ | -1217 |
第10世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
グレーボヴィチ兄弟の長幼の順は不明だが、スヴャトスラーフ・グレーボヴィチはおそらく年少の弟だったのではないかと想像される。少なくとも、グレーボヴィチ兄弟がからんだ1180年の事件には、スヴャトスラーフ・グレーボヴィチだけが登場しない。
1186年、グレーボヴィチ兄弟は、年長のロマーン、イーゴリ、ヴラディーミルがリャザニを、年少のフセーヴォロドとスヴャトスラーフがプロンスクを、それぞれ共同で支配していた。
年長の3人は、突然プロンスクを攻囲。年少のふたりはヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公に救援を要請する。
フセーヴォロド大巣公の先遣隊がプロンスクに入城して籠城軍とともにリャザニ軍と戦っている間に、フセーヴォロド大巣公はさらなる援軍を準備し、ムーロムのユーリエヴィチ兄弟も派兵。増援軍の来襲を知り、リャザニ軍は攻囲を解いて撤退した。
フセーヴォロド・グレーボヴィチはプロンスクを出て援軍に合流。リャザニ軍の撤退を受けて、援軍もヴラディーミルに引き返した。
しかしこれを知ったリャザニ3兄弟は、軍を返して再びプロンスクを攻囲。水の手を断たれたスヴャトスラーフ・グレーボヴィチは降伏。リャザニ3兄弟はそのままプロンスクをスヴャトスラーフ・グレーボヴィチに与え(だったら今回の騒動の目的は何だったんだ?)、リャザニに戻っていった。
1188年、フセーヴォロド大巣公がプロンスクに侵攻。リャザニ3兄弟は屈服し、フセーヴォロド大巣公はスヴャトスラーフ・グレーボヴィチを追ってフセーヴォロド・グレーボヴィチにプロンスクを与えた。
スヴャトスラーフ・グレーボヴィチがその後どうしていたかは不明。1207年の時点でリャザニ諸公のひとりとして名が挙げられているので、平和裏に一族と共存していたようだが、あるいはフセーヴォロド・グレーボヴィチと和解してプロンスクに戻っていたのか。あるいは兄たちの下でリャザニに居候していたか。
1207年、グレーブ & オレーグのヴラディーミロヴィチ兄弟によりチェルニーゴフ公との通牒の疑いをかけられたリャザニ諸公は、フセーヴォロド大巣公によりモスクワに召喚される。スヴャトスラーフ・グレーボヴィチも、ふたりの息子共々赴いた。しかし出頭した6人のリャザニ諸公は全員が監禁される。スヴャトスラーフ・グレーボヴィチと息子たちも例外ではなく、ヴラディーミルで虜囚生活を送ることを余儀なくされた。
1212年にフセーヴォロド大巣公が死ぬと、後を継いだユーリイ・フセヴォローディチによりリャザニ諸公は釈放されたとラヴレンティー年代記は伝えているが、その中にスヴャトスラーフ・グレーボヴィチが含まれていたかどうかは不明。没年ははっきりせず、あるいは獄死していたかもしれない。