リューリク家人名録

オレーグ・ヴラディーミロヴィチ

Олег Владимирович

プロンスク公 князь Пронский (1207-08)

生:?
没:1208−ベールゴロド

父:リャザニ公ヴラディーミル・グレーボヴィチリャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ
母:?

結婚:?

子:?

第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 父の死がいつだったかは不明だが、1207年の時点で死亡していたのは確からしい。この時点で生き残っていた父の兄弟は、リャザニのロマーン・グレーボヴィチと、プロンスクのスヴャトスラーフ・グレーボヴィチだけである。
 しかしオレーグ・ヴラディーミロヴィチの世代では、4人のヴラディーミロヴィチ兄弟のほかに、3人のイーゴレヴィチ兄弟、さらにミハイール・フセヴォローディチの計8人がいた。しかもリャザニ系は、父の代からそうだったが、分領を設けることをせず、このためプロンスクを支配していたミハイール・フセヴォローディチ(おそらくはスヴャトスラーフ・グレーボヴィチとともに)を除き、7人の若い諸公が伯父ロマーン・グレーボヴィチのリャザニで居候状態に置かれていたことになる。

 おそらくこの状態に不満を覚えたのだろう。1207年、チェルニーゴフ侵攻を計画するヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公に、オレーグとグレーブのヴラディーミロヴィチ兄弟が、リャザニ諸公がチェルニーゴフ公と通牒していると告発。
 フセーヴォロド大巣公はモスクワにリャザニ諸公を召喚し、集まったロマーン & スヴャトスラーフのグレーボヴィチ兄弟、イングヴァーリ & ユーリイのイーゴレヴィチ兄弟、さらにスヴャトスラーフのふたりの息子を拘束。プロンスクに侵攻した。
 ミハイール・フセヴォローディチは逃亡したが、プロンスク市民は代わって弟のイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチを担ぎあげて徹底抗戦をつづけた。またリャザニに居残っていたロマーン・イーゴレヴィチもその救援に駆け付けるが、ヴラディーミル軍を率いたオレーグ・ヴラディーミロヴィチに敗北。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチもチェルニーゴフに逃亡し、プロンスクが、続いてリャザニが降伏。ロマーン・イーゴレヴィチフセーヴォロド大巣公の捕虜となり、リャザニは制圧された。

 この後のフセーヴォロド大巣公の措置について、史書によって混乱が見られる。
 プロンスクについては、まずオレーグ・ヴラディーミロヴィチに、続いて1208年にはムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチに与えたと見ていいだろう。
 しかしリャザニについては、息子のヤロスラーフ・フセヴォローディチに与えたが1208年に市民の蜂起が起こって追われたともされるが、グレーブ・ヴラディーミロヴィチに与えたとする史料もある。そうだとしても、すでに1208年中にグレーブ・ヴラディーミロヴィチはオレーグ、イジャスラーフの弟ふたり、さらにはミハイール・フセヴォローディチとも共同してプロンスクを攻めてフセーヴォロド大巣公に反旗を翻している。
 オレーグ・ヴラディーミロヴィチ自身についても、フセーヴォロド大巣公に一旦プロンスクを与えられたとしたらそれは戦功によるもので、それがいかなる理由からかはわからないが、取り上げられたとしたら不満であろう。ましてや、もしプロンスクが与えられていなかったとすれば、不満はなおさらであったろうと思われる。そもそもオレーグとグレーブのヴラディーミロヴィチ兄弟が今回の一連の騒動を引き起こしたのも、領土についての不満が原因であったろうと推測されるからだ。1208年中にはすでに反フセーヴォロド大巣公勢力に与していた。

 1208年、ヴラディーミロヴィチ3兄弟とミハイール・フセヴォローディチがプロンスクに侵攻し、ダヴィド・ユーリエヴィチと戦う。ダヴィド・ユーリエヴィチはムーロムに逃げ帰り、ミハイール・フセヴォローディチがプロンスクを奪還した。

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