リューリク家人名録

オレーグ・イヴァーノヴィチ

Олег Иванович

リャザニ大公 великий князь Рязанский (1350-71、72-1402)

生:?
没:1402.07.05

父:リャザニ大公イヴァン・イヴァーノヴィチ・コロトポルリャザニ大公イヴァン・ヤロスラーヴィチ)?
母:?

結婚:
  & エヴフロシーニヤ -1405 (リトアニア大公アルギルダス?)

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
エフフロシーニヤと
1フョードル-1427?リャザニソフィヤモスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ
2ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチ-1372プロンスク公
3アグラフェーナイヴァン・ティートヴィチペレムィシュリ公
4エレーナユーリイ・スヴャトスラーヴィチスモレンスク大公
5ロドスラーフ-1407?
?アナスタシーヤカリブタス-1402ノーヴゴロド=セーヴェルスキイ公

第17世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。洗礼名ヤーコフ。

 正確な出自は実ははっきりしない。父はイヴァン・アレクサンドロヴィチアレクサンドル・ミハイロヴィチの子? あるいはヤロスラーフ・ロマーノヴィチの孫?)とも言われる。
 リャザニ系の諸公についてはもともとヴラディーミル大公(のちモスクワ大公)との関連でしか年代記に情報が残されない傾向が強く、そのような情報不足に加えて、1342年(43年?)にイヴァン・コロトポルが殺されて以後、プロンスク系がリャザニ大公位に就いたりしていたある種の混乱状況が、半世紀にわたってリャザニに君臨したオレーグ・イヴァーノヴィチの素性すら明らかではないところにも反映されているものと思われる。

 1350年にオレーグ・イヴァーノヴィチがヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチの跡を継いでリャザニ大公に就任した際の事情すら明らかではない。
 父がイヴァン・アレクサンドロヴィチであるならば、叔父の跡を継いだというだけで、特に問題はない。しかし父がイヴァン・コロトポルだとしたら話は単純にはいかない。と言うのもイヴァン・コロトポルは1340年にアレクサンドル・ミハイロヴィチを殺しているからで、ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチがその子であるならば(そうでないとの説もある)、ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチとオレーグ・イヴァーノヴィチとの間には敵対関係が存在したはずだからだ。
 ヴァシーリイ・アレクサンドロヴィチアレクサンドル・ミハイロヴィチの子ではないとしても、正真正銘アレクサンドル・ミハイロヴィチの子であるヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチはすでに死んでいたものの、その遺児ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチが生き残っている。
 のち、ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチはオレーグ・イヴァーノヴィチの娘婿となっている。先代の遺恨は流されたか、あるいはこれを契機に和解が成立したのか、それともそもそもオレーグ・イヴァーノヴィチはやはりイヴァン・コロトポルの子ではなくイヴァン・アレクサンドロヴィチの子だったのか。

 モスクワ大公イヴァン2世赤公と対立(ヴェレヤー、ボーロフスクなどを奪われた)。

 1365年、トガイ率いるモルドヴァー人がペレヤスラーヴリ=リャザンスキイに侵攻し、これを攻略。オレーグ・イヴァーノヴィチはプロンスク公ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチコゼリスク公ティート(フョードル・ティートヴィチの子?)とともにこれと戦い、撃退した。

 1370年、リトアニア・トヴェーリ連合軍がモスクワに侵攻した際には、モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイの救援に駆け付ける。
 しかし、いかなるいきさつがあったのか(領土を巡る問題だとされるが、具体的にはよくわからない)、1371年にドミートリイ・ドンスコーイドミートリイ・ボブロク=ヴォルィンスキイ率いる軍をリャザニに派遣した。オレーグ・イヴァーノヴィチはモスクワ軍を迎え撃ったが、ペレヤスラーヴリ=リャザンスキイ近郊で敗北。一旦リャザニはヴラディーミル・ヤロスラーヴィチに奪われた。
 しかし間もなく(1373年?)オレーグ・イヴァーノヴィチはリャザニを奪還し、ヴラディーミル・ヤロスラーヴィチを捕虜とした。
 なお、この時復位を支援したキプチャク・ハーン軍の司令官がサルホミル(サラフミル)。サルホミルは以後オレーグ・イヴァーノヴィチに仕えるようになり、正教に改宗(正教徒名はイヴァン・ミロスラーヴィチ)。オレーグ・イヴァーノヴィチはかれに妹アナスタシーヤを与える。その子孫がアプラークシン家、クリュコーフ家、ハヌィコーフ家などである。

 1377年、キプチャク・ハーン軍がリャザニに侵攻。オレーグ・イヴァーノヴィチは捕虜となり、ペレヤスラーヴリ=リャザンスキイは陥落。オレーグ・イヴァーノヴィチは逃亡に成功し、ニージュニイ・ノーヴゴロドに進んだキプチャク・ハーン軍はモスクワ軍に撃退された。1378年にはボブロク=ヴォルィンスキイ率いるモスクワ軍と共同してキプチャク・ハーン軍を撃退している。
 これに対する報復として、1379年にはママイ自らがキプチャク・ハーン軍を率いてリャザニに侵攻。オレーグ・イヴァーノヴィチはペレヤスラーヴリ=リャザンスキイを棄ててオカ河右岸に逃亡。ペレヤスラーヴリ=リャザンスキイは再び焼き払われ略奪されたが、ママイはオカ河右岸までは追いかけてこなかった。

 リャザニは当時、南東をキプチャク・ハーン国、西をリトアニア、北をモスクワに囲まれ、これらの勢力均衡の上に辛うじて生き永らえている状態だった。最も大きな影響を受けたのはモスクワだが、そのモスクワも連年のようにリャザニを攻略するキプチャク・ハーン軍からリャザニを完全に守り切るだけの力がまだなかった。このためオレーグ・イヴァーノヴィチは、基本的にモスクワ大公に従属しつつも、情勢に応じてキプチャク・ハーンと手を結び、さらにリトアニア大公に接近してモスクワ大公を牽制して独立を維持していた。
 1380年にキプチャク・ハーン国の実権を握るママイがモスクワとの決戦のために大軍を結集して北上してきた時も、オレーグ・イヴァーノヴィチは、まずドミートリイ・ドンスコーイにこの情報を伝え、同時にママイと交渉に入り、さらにはリトアニア大公ヨガイラにも接近した。年代記の伝えるところによると、この時オレーグ・イヴァーノヴィチとヨガイラは、ママイ軍の接近にドミートリイ・ドンスコーイがモスクワから逃亡すると判断し、その領土をリャザニとリトアニアとで分割してママイから認可状をもらおう、と虫のいいことを取り決めたらしい。もっとも一方で、オレーグ・イヴァーノヴィチはママイとヨガイラと同盟を結びつつも、裏でドミートリイ・ドンスコーイに中立を約束していた、とする説もある。
 結局クリコーヴォの戦いはモスクワ軍の勝利に終わり、報復を怖れたオレーグ・イヴァーノヴィチはリトアニアに逃亡した。ドミートリイ・ドンスコーイは一旦リャザニを占領して代官を派遣したものの、これをモスクワ領として恒常的に支配することの難しさを認識し、1381年、オレーグ・イヴァーノヴィチと講和して両者間の国境につき合意した(リャザニはモスクワにとってはタタールからの防波堤の役割も果たしていた)。

 1382年、クリコーヴォの敗戦の報復に、トフタミシュがモスクワを攻略。この時オレーグ・イヴァーノヴィチは自らトフタミシュの陣営に赴いて、リャザニを攻撃しないよう要請した。しかしモスクワからの帰途にタタール軍が、さらに続けてそれを追うモスクワ軍が、相次いでリャザニを蹂躙した。

 1385年、堪忍袋の緒が切れたのか、オレーグ・イヴァーノヴィチはモスクワ領に侵攻。コロームナを攻略した。セールプホフ公ヴラディーミル勇敢公率いる迎撃軍を破り、ドミートリイ・ドンスコーイからの講和の要請も蹴った。しかし聖セールギイ・ラードネジュスキイの仲裁に、1386年、ようやくドミートリイ・ドンスコーイとの講和に合意した。この講和に基づき、1387年、息子フョードルドミートリイ・ドンスコーイの娘と結婚した。

 これによりようやくモスクワとの抗争にケリをつけ、オレーグ・イヴァーノヴィチは南方に力を傾注するようになる。
 1387年、息子ロドスラーフをサライに人質として派遣したが、逃亡。このためキプチャク・ハーン軍がリャザニを蹂躙し、オレーグ・イヴァーノヴィチは危うく虜囚の憂き目を免れた。
 しかしその後も毎年のようにキプチャク・ハーン軍がリャザニに侵攻。モスクワとの講和に救われた面もあったろうが、逆にこのためにモスクワと敵対している暇がなかったのかもしれない。

 1392年、スモレンスクにて市民の蜂起が発生し、スモレンスク大公位を追われた娘婿ユーリイ・スヴャトスラーヴィチがリャザニに避難してきた。スモレンスク大公にはその弟グレーブ・スヴャトスラーヴィチがリトアニアの後押しで就任し、オレーグ・イヴァーノヴィチはユーリイ・スヴャトスラーヴィチの復位を支援するため、以後はリトアニアとの戦争に専念した。
 1396年、ユーリイ・スヴャトスラーヴィチとともにリトアニア領を蹂躙。リトアニア大公ヴィタウタスを破った(が、スモレンスクは奪回できなかった)。

 スモレンスクを併合していたリトアニアは、1399年にキプチャク・ハーン軍に大敗を喫する。これによりその東方領土に動揺が走り、しかもリトアニア大公位を巡る内紛までが勃発した。
 1401年、オレーグ・イヴァーノヴィチはユーリイ・スヴャトスラーヴィチと、さらにはプロンスク、ムーロム、コゼリスクの諸公とともにスモレンスクに侵攻。スモレンスクを占領し、ユーリイ・スヴャトスラーヴィチを大公位に就けた。

 死の直前、修道士となっている(修道名ヨアキーム)。

 なお、リャザニの紋章には剣を持った人物が描かれているが、地元ではこれはオレーグ・イヴァーノヴィチだと考えられていたらしい(ちなみにリャザニの紋章がつくられたのは18世紀)。

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