イヴァン・イヴァーノヴィチ «コロトポル»
Иван Иванович "Коротопол", "Коротопль"
リャザニ大公 великий князь Рязанский (1327-42)
生:?
没:1343
父:リャザニ大公イヴァン・ヤロスラーヴィチ (リャザニ大公ヤロスラーフ・ロマーノヴィチ)
母:?
結婚:?
子:
名 | 生没年 | 分領 | 結婚相手 | 生没年 | その親・肩書き | |
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母親不詳 | ||||||
1 | オレーグ | -1402 | リャザニ | エヴフロシーニヤ | -1405 | |
2 | アナスタシーヤ | サルホミル | (アプラークシン家の祖) | |||
? | ソフィヤ | フセーヴォロド・アレクサンドロヴィチ | 1328-64 | トヴェーリ大公 |
第16世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
1327年、父が死去。この後誰がリャザニ大公位を継いだかはよくわからない。一般的には息子のイヴァン・イヴァーノヴィチが継いだとされるが、異説もあるようだ。
1333年、モスクワ公イヴァン1世・カリターのノーヴゴロド遠征に従軍。
1340年、サライに伺候。ウズベク・ハーンの命により、そのスモレンスク懲罰に従軍するため、モンゴル軍とともに帰国。帰途、従兄弟プロンスク公アレクサンドル・ミハイロヴィチと遭遇し、これを襲撃してペレヤスラーヴリ(=リャザンスキイ)にて殺す。その足でモンゴル軍に同行し、スモレンスク公イヴァン・アレクサンドロヴィチと戦う。
1342年、アレクサンドル・ミハイロヴィチの遺児ヤロスラーフ・アレクサンドロヴィチがハーンからリャザニ公位を認められ、イヴァンはペレヤスラーヴリ=リャザンスキイを追われる。数ヶ月後殺されたらしいが、場所も下手人も不明である。