ムーロム系

スヴャトスラーヴィチの分家。スヴャトスラーヴィチの始祖スヴャトスラーフ・ヤロスラーヴィチ(6)の末男ヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ(7)の子孫を言う。ほぼ排他的にムーロム=リャザニを領有したため、ムーロム系、あるいはムーロム=リャザニ系、場合によってはリャザニ系などと呼ばれる。

 スヴャトスラーヴィチ一族の本領チェルニーゴフから遠かったためか、あまりほかのスヴャトスラーヴィチとのかかわりを持たず、キエフ大公位争奪戦ともほとんど無縁だった。ひとつにはキエフ・ルーシの最東端に位置したことから、ヴォルガのウラル系諸民族との対応を優先したためかもしれない。それでも始祖のヤロスラーフ・スヴャトスラーヴィチ(7)はチェルニーゴフ公位を継いだりしているが、すでにその子ら(8)はチェルニーゴフ公位とは無縁である。
 本領はムーロムだったが、やがてそこから分かれたリャザニが台頭。ロスティスラーフ・ヤロスラーヴィチ(8)もヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ(9)も、一族の長となった後もリャザニに住み続けたようだ。
 ヴラディーミル・スヴャトスラーヴィチ(9)とその従兄弟グレーブ・ロスティスラーヴィチ(9)から、それぞれムーロム系とリャザニ系に分裂。
 すでにリャザニが中心都市となっていたことを反映してか、本来本家であるはずのムーロム系は、陰が薄い。年代記にはしばしば «ムーロム諸公» という言葉が現れるが、現実に名が知られているのは以下の面々のみ。おそらく記録から漏れた分家があったのだろう。その記録上も、モンゴル襲来後にムーロム公となったヤロスラーフ・ユーリエヴィチ(13)を最後として、系譜がわからなくなる。14世紀にもムーロム公は存在したが、かれらがムーロム系の末裔なのか、それともリャザニ系の人間なのか、はたまたそれ以外の出身なのか、はっきりしない。ムーロム自体、1392年にはモスクワに併合された。

 リャザニ系は、北のヴラディーミル大公、南西のチェルニーゴフ公とのからみで記録に頻出する。おかげで系譜も比較的わかっており、モンゴルの襲来を耐え抜いてモスクワに併合されるまで300年にわたって続いた。
 それにしても、この系統は長く続いたにもかかわらず、分家がまったく続かない。1217年にグレーブ・ヴラディーミロヴィチ(11)によって一族が皆殺しにされたり、1237年にモンゴルの襲来で一族がことごとく討ち死にしたり、といった悲劇があったにせよ、分家がすぐに断絶してしまう。しかしそのために、小さな分領に細分化され、弱体化していく、という、ほかの一族を襲った運命を免れることができた。
 その代わり、一族間の内紛には事欠かなかった。グレーブ・ヴラディーミロヴィチ(11)による一族皆殺しなどは極端な例だが、たまに出る分家がプロンスク公となり、本家とリャザニ公位を巡って激しく争った。
 14世紀にはモスクワに圧迫され、15世紀半ばには完全にその属国となる。16世紀初頭、モスクワに併合された。本家のリャザニ公家も、分家のプロンスク公家も、最後の分領公はいずれもその後リトアニアに亡命。しかしその末裔はおそらく存続していない。プロンスク公家の分家がモスクワ大公に仕えるようになったが、それも17世紀には断絶した。

 以下、スタイルシートで家系図を示す。環境次第では(正確に)表示されない。悪しからず。(正確に)表示されない場合は、こちらの画像を。
 赤枠はムーロム公。水色枠はリャザニ公。

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