グレーブ・ヴラディーミロヴィチ
Глеб Владимирович
リャザニ公 князь Рязанский (1207-13)
生:?
没:1219
父:リャザニ公ヴラディーミル・グレーボヴィチ (リャザニ公グレーブ・ロスティスラーヴィチ)
母:?
結婚:
& ? (スモレンスク公ダヴィド・ロスティスラーヴィチ)
子:?
第11世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。
ヴラディーミロヴィチ兄弟の長幼の順はよくわからないが、基本的にグレーブ、オレーグ、コンスタンティーン、イジャスラーフの順で列挙される。経歴を見ても、グレーブ・ヴラディーミロヴィチが長兄であったと考えてもいいだろう。
生年も不明だが、父の生年が1160年代と想像されるので(あくまで想像だが)、グレーブ・ヴラディーミロヴィチの生年も1190年頃だったのではないだろうか。
1196年、岳父のダヴィド・ロスティスラーヴィチを支持してオーリゴヴィチと戦う(危うく捕虜となりかけた)。
父の死がいつだったかは不明だが、1207年の時点で死亡していたのは確からしい。この時点で生き残っていた父の兄弟は、リャザニのロマーン・グレーボヴィチと、プロンスクのスヴャトスラーフ・グレーボヴィチだけである。
しかしグレーブ・ヴラディーミロヴィチの世代では、4人のヴラディーミロヴィチ兄弟のほかに、3人のイーゴレヴィチ兄弟、さらにミハイール・フセヴォローディチの計8人がいた。しかもリャザニ系は、父の代からそうだったが、分領を設けることをせず、このためプロンスクを支配していたミハイール・フセヴォローディチ(おそらくはスヴャトスラーフ・グレーボヴィチとともに)を除き、7人の若い諸公が伯父ロマーン・グレーボヴィチのリャザニで居候状態に置かれていたことになる。
おそらくこの状態に不満を覚えたのだろう。1207年、チェルニーゴフ侵攻を計画するヴラディーミル大公フセーヴォロド大巣公に、グレーブとオレーグのヴラディーミロヴィチ兄弟が、リャザニ諸公がチェルニーゴフ公と通牒していると告発。
フセーヴォロド大巣公はモスクワにリャザニ諸公を召喚し、集まったロマーン & スヴャトスラーフのグレーボヴィチ兄弟、イングヴァーリ & ユーリイのイーゴレヴィチ兄弟、さらにスヴャトスラーフのふたりの息子を拘束。プロンスクに侵攻した。
ミハイール・フセヴォローディチは逃亡したが、プロンスク市民は代わって弟のイジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチを担ぎあげて徹底抗戦をつづけた。またリャザニに居残っていたロマーン・イーゴレヴィチもその救援に駆け付けるが、ヴラディーミル軍を率いたオレーグ・ヴラディーミロヴィチに敗北。イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチもチェルニーゴフに逃亡し、プロンスクが、続いてリャザニが降伏。ロマーン・イーゴレヴィチもフセーヴォロド大巣公の捕虜となり、リャザニは制圧された。
この後のフセーヴォロド大巣公の措置について、史書によって混乱が見られる。
プロンスクについては、まずオレーグ・ヴラディーミロヴィチに、続いて1208年にはムーロム公ダヴィド・ユーリエヴィチに与えたと見ていいだろう。
しかしリャザニについては、息子のヤロスラーフ・フセヴォローディチに与えたが1208年に市民の蜂起が起こって追われたともされるが、グレーブ・ヴラディーミロヴィチに与えたとする史料もある。そうだとしても、すでに1208年中にグレーブ・ヴラディーミロヴィチはオレーグ、イジャスラーフの弟ふたり、さらにはミハイール・フセヴォローディチとも共同してプロンスクを攻めているので、早くも1208年までにはグレーブ・ヴラディーミロヴィチもフセーヴォロド大巣公に反旗を翻していたと考えていいだろう。
1208年、ヴラディーミロヴィチ3兄弟とミハイール・フセヴォローディチがプロンスクに侵攻し、ダヴィド・ユーリエヴィチと戦う。ダヴィド・ユーリエヴィチはムーロムに逃げ帰り、ミハイール・フセヴォローディチがプロンスクを奪還した。
史料の混乱はこの後さらに甚だしくなる。つまり、1212年までのリャザニの状況がよくわからず、グレーブ・ヴラディーミロヴィチが支配していた、とする史料もある。
そうではなくグレーブ・ヴラディーミロヴィチはプロンスクを支配していて、1209年にはリャザニに侵攻するが敗北した、とする史料もある。
1212年、フセーヴォロド大巣公が死去。後を継いだユーリー・フセヴォローディチにより監禁されていたリャザニ諸公は釈放され、ロマーン・イーゴレヴィチがリャザニ公となった。
もしグレープ・ヴラディーミロヴィチがこれまでリャザニを支配していたとするならば、この時ユーリイ・フセヴォローディチの圧力で(?)ロマーン・イーゴレヴィチにその座を明け渡すことになったというところか。
1217年、リャザニ諸公を宴会に招く。弟コンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチと共謀し、ポーロヴェツ人の力を借りて、この時集まった6人、実弟イジャスラーフ・ヴラディーミロヴィチ、そして従兄弟のロマーン・イーゴレヴィチ、ミハイール・フセヴォローディチ、ロスティスラーフ & スヴャトスラーフ、グレーブ(父不詳。ロマーンかイーゴリ?)を皆殺し。生き延びたのは、遅参したイングヴァーリ・イーゴレヴィチとその弟ユーリイ・イーゴレヴィチだけだった。
どう考えてもリャザニ公位が欲しくて起こした行為だが、あるいは取り逃がしたイングヴァーリとユーリイのイーゴレヴィチ兄弟の武力が強大だったか、あるいはボヤーリンや市民の反発が予想外に大きかったのか、グレーブ・ヴラディーミロヴィチはポーロヴェツ人たちのもとに逃亡。その支援を得て1218年にコンスタンティーン・ヴラディーミロヴィチとともにリャザニに侵攻するが、イーゴレヴィチ兄弟に敗北。ポーロヴェツ人のもとで再起を図る。しかし果たせず、客死。