リューリク家人名録

フョードル・オーリゴヴィチ

Федор Ольгович

リャザニ大公 великий князь Рязанский (1402-27)

生:?
没:1427頃

父:リャザニ大公オレーグ・イヴァーノヴィチリャザニ大公イヴァン・イヴァーノヴィチ・コロトポル
母:エフフロシーニヤ (リトアニア大公アルギルダス

結婚:1387
  & ソフィヤ公女 (モスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイ

子:

生没年分領結婚相手生没年その親・肩書き
ソフィヤ・ドミートリエヴナと
1ヴァシリーサイヴァン・ヴラディーミロヴィチ1381-1422セールプホフ公
2ヴァシーリイ-1409
3イヴァン-1456リャザニ

第18世代。スヴャトスラーヴィチ(ムーロム系)。

 1386年、父がモスクワ大公ドミートリイ・ドンスコーイと講和。これにともないフョードル・オーリゴヴィチはソフィヤ・ドミートリエヴナと結婚した。

 晩年の父の対モスクワ協調路線を継承。すでに父の跡を継ぐ前、1401年(1400年?)に、娘をイヴァン・ヴラディーミロヴィチに与えている(もちろん父の存命中のことなのでフョードル・オーリゴヴィチ自身のイニシャティヴではないだろうが)。

 1402年、父が死去。フョードル・オーリゴヴィチはサライに赴き、ハーンのシャーディー・ベクから認可状をもらった。
 この間、プロンスク公イヴァン・ヴラディーミロヴィチがリャザニを占領する。義兄のモスクワ大公ヴァシーリイ1世が介入してイヴァン・ヴラディーミロヴィチを追い、フョードル・オーリゴヴィチがリャザニを継承した。
 フョードル・オーリゴヴィチはヴァシーリイ1世と条約を結び、事実上その属国となった。

 1405年、タタール軍がリャザニに来襲。蹂躙してステップに去ったが、フョードル・オーリゴヴィチは追撃軍を派遣し、捕虜や略奪品を奪還した。

 1405年頃、リトアニアの捕虜となっていた弟ロドスラーフを買い戻す。

 1408年、タタール軍を率いたイヴァン・ヴラディーミロヴィチによりリャザニから追われる。この時もヴァシーリイ1世が軍を派遣し、これによりフョードル・オーリゴヴィチがリャザニを奪回した。

 1411年、ニージュニイ・ノーヴゴロド情勢に介入したタタール軍が、帰りがけの駄賃と思ったかリャザニに来襲。フョードル・オーリゴヴィチはこれを撃退した。

 1415年、タタールにより荒廃したエレーツの住人をリャザニ公領内に移住させる。

 1426年、タタール軍がリャザニに来襲。

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